子どもが「しでかすこと」の数は、待てば待つほど増える
ぼくは東京・お台場の日本科学未来館という施設にある「"おや?"っこひろば」の総合監修をさせていただく機会がありました。そこのコンセプトは、「手を出さない」「口を出さない」「目を離さない」とさせていただいています。これは、親御さんが子どものために、よかれと思って「こうしたら」と提案を出せば出すほど、子どもの行動が親御さんが期待したどおりの、予定調和の行動になってしまう。しかしそこで、一呼吸だけ声をかけるのを(がまんしてでも)待っていただくと、子どものとる行動の中に親御さんの知らない行動が1つ2つ出てくるんですよね。もう一呼吸待つと「さらに2パターン」というように。
それこそが子どもの主体性の萌芽であり、待てば待つだけそのパターンが増えてきます。裏を返せば、(よかれと思って)教えれば教えるほど、子どもは「しでかさなく」なる。その行動の上限が大人がもっているアイデアの上限と一緒になってしまうんです。
腕時計よりも子どものテンションに目を向ける
就学前児童のお子さんを抱える親御さんたちに講演する機会をいただいたときなどに、この「待つ」ことのお話を紹介すると、必ず『一体、いつまで待てばいいんですか?』という質問が一番に飛んできます。たとえば公園に遊びに行ったとしても、もちろん待ちたいのは山々だけど、習い事の時間もあるし、夕食の支度もしないといけない。たとえば公園で「お子さんがそろそろ帰ろう」と言い出すような場面、親御さんは14時半までは遊んでいいよ、とうながしたところ、14時20分ぐらいに子どもが新しい遊びを発見してしまい、おもしろくなって帰りたくないと言い出すような場面を想像してください。親御さんからすれば、「だって14時半って約束したじゃない」と言いたい。でもこれは腕時計とにらめっこをした「待つ」であって、子どもの顔を見て決めた「待つ」ではなかった。同じ「待つ」でも、そこに違いがあるのではないでしょうか。
(ここで保護者が発言)──「小学校に入るまでは待てたのですが、小学校に入ると難しくなりました」。
皆さんそうおっしゃいます。
幼稚園や保育園までは、たしかにありのままの子どもにあわせてくれる大人も環境も多くあった。友達関係も「仲良くできる子と仲良くしよう」という号令だったのに、小学校になった瞬間「友達100人作りましょう」と言われてしまい、馬の合う合わないはおいておいて、我慢して乗り越えることを急に強いられる感覚がある。子どもたちを見守る大人も、いつしか子どもたちではなく、時計の針やルールばかり見て、子どもたちの顔を見る時間が減ってしまう。
中学や高校では、「何月何日までに進路シートを提出」みたいに声をかけられることがありますが、それだけが進路指導ではないですよね。その日までに決められない生徒はたくさんいるだろうし、一度決めた進路に迷って変更したくなる生徒だってたくさんいる。
その迷いや戸惑いに寄り添うことが進路指導であるべきだろうし、決められた提出日を守らせることよりも大切なのではないかと思います。しかし、そんなことをする余裕がない、そんなに一人一人見ていられない、となってしまう。
だからこそ「緩める」が必要なのでしょう。子どもたちにとっても、大人にとっても。それがなければ、個に向き合う教育も、誰一人取りこぼさないなどという掛け声もすべて絵空事に終わってしまう。だからこそ、この学校で取り組んでいるような「ありのままの君に学校があわせる」という壮大なチャレンジが、たくさんの人にとって新しい学校のあり方の一つとして提案できるのではないかと期待しています。