良いエピソードとは漠然とした印象ではない
ジーニアスエピソードを、その人の天才性、奇人性を象徴する一風変わった振る舞いに関する出来事とする。例えば「親がおもちゃを買ってくれなかったので、目をつぶって妄想の世界の中で自分が考えたおもちゃと遊ぶ癖がついた」、「小さい頃から漫画や小説などよりも辞書が好きで、家の近所を散策しては看板など目についた言葉を片っ端から辞書で調べる趣味があった」などの例が挙げられる。なお特定個人を揶揄する意図はないため、これらのエピソードはいかにもありそうなものを私が創作した(ただし、たまたま本当にこういうエピソードを語っている人はいるかもしれない)。
ジーニアスエピソードは一風変わっていればなんでもよいわけではない。良いジーニアスエピソードにはいくつかの条件がある。
まずは「新規性・独自性」だ。例えば「知育ブロックが好き」「ものを分解することが好き」などのエピソードはあまりに巷に溢れており、もはやエピソードとして語られるというよりも、本当に天才性はそのように育まれることもあるのでしょうね、としか言いようがない。一方で「信憑性のバランス」にも気をつける必要がある。「家中の家具や家電に番号をつけて全てのものを番号で呼ぶ癖があった」と言われた場合、もしかしたら本当にそういう人もいるのかもしれないが、「いやさすがに話を盛っているのでは?」という疑念が先に来てしまう。噓か本当かが重要というよりも、納得感が重要である。
そして最後に「エピソードの重要度」だ。そのエピソードがその人を構成する重要な要素なのか、それとも些細な日常のいちエピソードにすぎないのか、この指標にも絶妙なラインが求められる。例えば「布団の中にまでサッカーボールを持ち込み、寝ている間も足にボールの感覚をなじませていた」というエピソードをもつ天才的なサッカー選手がいた場合、エピソードとその人のタレント性が近すぎて、大喜利的な発想のジャンプがない。一見、エピソードとタレント性の関係性が希薄で、うっすらその後開花する才能の発露を感じさせる距離感が良い。これらの3つの指標による閾値条件をみたすエピソード群によって、漠然とした印象をメタ的に解釈し明確にしていく方法をジーニアスエピソード理論と呼ぶことにした。