それらのことを西山さんが自ら話すわけでもなく、当時の職場で彼女のそんな特性を知っている同僚は1人もいなかった。
冤罪事件においてある看護主任の供述調書には「指導は素直に聞くが、改善が見られず、同じ事を繰り返す」という記述があった。同僚看護師の供述調書では「西山さんは『ミスを繰り返す人』で注意を受けるたびに『何で(叱られるのが)私ばっかりや』といつまでも愚痴っていた」と指摘されていた。
「指導を素直に聞く」のに「改善が見られない」のは、障害のある西山さんには負担が大きすぎたからだが、ミスは性格的な問題と誤解された。西山さんも自分ばかりが上司の叱責を受けることを「いじめ」と受け止め、職場の愚痴を刑事に話したことが「犯行動機」にでっち上げられてしまった。
再審無罪の後、西山さんが就いた「念願の」介護職の現場でも一般雇用ゆえに、そんな〝負のスパイラル〟にはまる危険が高まっていた。
障害者枠での雇用だった前職の機械部品工場では、行政のサポートで専門の支援員が職場に派遣され、誤解を解いたり、業務内容を見直してもらうなど、手厚いサービスがあったが、一般雇用ではそのサービスも活用できなかった。
「行政サポートの職員に相談に行けば話を聞いてくれるんですが、障害者雇用で働いたときのように、職場との間に入り双方の言い分を聞いて改善するようなことまではしてくれませんでした」
9カ月で退職。挫折ではなく、2つの挑戦の始まり
給料は良くても、少人数での多忙な仕事のストレスが限界に。結局、その施設は9カ月で退所した。だが、それは挫折ではなく、新たな挑戦の始まりだった。
退所と前後して西山さんは2つのことを試みる。1つは、実家を出て一人暮らしを始めたこと。自立への新たな挑戦だった。FBでこう報告している。
「皆様に報告です。この度いろんな事情で、一人暮らしをする事になりました。引っ越し日は、明日に決まりましたが、当分の間は、食事は両親ととることになります。それじゃ一人暮らしじゃね〜やんと言われそうですが…両親は、一人暮らしする私を、応援する反面心配もしていますが、やるだけやりたいと思っております」
後日談で「実は両親には相談せずに引っ越しました。反対されると思ったので」といたずらっぽく打ち明けていたが、一人暮らしは1年ほど続いた。今は「大切な経験だった」と振り返る。
もう1つの挑戦は、介護の資格を取得することだった。刑務所にいる時から意欲的に様々な資格を取得してきたが、介護の現場で「これからずっと続けるためには資格を持つことは大切だと思った」という。
「介護を生涯の仕事にする」という明確な目的があり、そのためにもいったん仕事を辞め、資格取得のための時間をつくる必要があったのだ。