われわれは自分の死期をどのように受け止めるか?
──そんな問題に対して、何ができるのでしょう。
私たちは、ワークショップやレクチャーという形で、このテーマをどのように切り出せばいいのか、ヒントを与えることで手助けをしようと取り組んでいます。──たとえば、もっと具体的には?
自分でできるささやかなこともあります。たとえば、月に一度、お気に入りの紅茶を淹れて、意識的に自問自答する時間を設けましょう。死を身近に感じていないときにあえて、安全で快適な環境で死について自問するのです。もしかしたら、死のことでない思いがけない課題、たとえば「転職の時期が来ているかも」に気づく場合もあるかもしれません。また、もしも現状、死に対する考え方が非常にネガティブならば、なぜネガティブか? を考えるきっかけになるかもしれません。
誰も、決定的な旅立ちを好みません。
しかし、自分の、この世界での滞在時間や大切な人の存在時間が日を追うごとに短くなっていく、その当然の事実から常に目を背けようとしていると、いざ旅立ちが近づいてきたときに、手立てもなく、完全に圧倒されてしまいます。
だからこそ、将来の旅立ちの瞬間にも、時々思いを馳せてみることが大切なのです。そうすることで、いつか必ず訪れる「死」という大きなテーマとコミュニケーションが取れるようになるはずです。
人間の物語に一区切りをつける
──欧米では、昔は、人は死後数日経っても死の床にまだいて、人々が別れを告げに来るものだと感じていました。現代ではそのような「信仰」はほとんどなくなりました。このような、「死者」を見なくなっていること、死者との関わり方の変化について、どのようにお感じですか。
死者を見ないだけでなく、死にゆく者を見なくなっていますね。老人ホームや介護施設、病院、ホスピスで生涯を終えた場合、そこからすぐに葬儀に移送されることが多い。葬儀の際に棺を開ける習慣もなくなりつつある。私たちの死生観は、歪んで来ているように感じます。──なぜ、死者を死の床にのベさせたまま、別れを告げる人々の前に置くことをしなくなったのでしょうか。
第二次世界大戦後、社会が死のイメージで飽和し、美しいものに目を向けたい、もう苦しみや終わりを見たくない、という欲望で世の中がいっぱいになったからではないでしょうか。また、医学も進歩し、人々は最期の瞬間まで施設で治療されるようになりました。単なる「老衰」で亡くなることが徐々に少なくなっていて、死の瞬間にはつねに、何らかの科学的な「診断」が下されます。──大切な人の亡骸は見たくないという人もいますね。
はい、よくあることです。しかし私自身は、ご遺体と出会うことで、いつも助けられてきたと思っています。ご遺体を見たとき、脳はその感覚を受け止めなければならないので、人の死を情報として「聞いた」だけのときとは違う形で、終わりを受け止めることができます。
「死んでいる」姿は、「生きていた」イメージの背後に位置するものであり、決して重なり合うものではありません。それどころか、人間の物語の背後にある、一種の完全停止状態といってよい。物語が終わった後のその期間もまた大切である、私はいつもそう感じています。
(Forbes Slovakia 原文)
※スロバキア語から英語への翻訳にDeepL無料版を使用し、編集部で翻訳、編集した