「インテル」の1985年の意思決定は、その一つに挙げられるだろう。
半導体のメモリーメーカーとしてインテルは、1970年代前半にダイナミック・ランダム・アクセス・メモリー(DRAM)チップの量産化に成功し、市場シェア100%という独占的シェアを実現した。
しかし、70年代も後半に差し掛かると、日本企業の攻勢を受け、品質・コストいずれにおいても追い抜かれることになる。かくして一度栄華を築いたインテルの競争力は失われ、1984年秋には経営危機に陥った。
普通の企業であれば、ここから坂を下るように凋落していくのだが、実はここからがインテルの真骨頂だ。
翌1985年、彼らは自社の原点であり、長らく競争力の源泉であり続けたメモリー事業を棄て、新規事業であるマイクロプロセッサーに経営の軸足を移すことを意思決定したのだ。
自社をマイクロプロセッサー企業として再定義したインテルのその後の活躍は、今日の私たちが知るところだろう。パソコン全盛期において、Windowsとともに「ウィンテル」と呼ばれ、一気に高成長・高収益企業へと飛躍した。
インテルの華々しい歴史も、振り返ればこの1985年の意思決定で正しい道を選んだことにある。では、どのような経緯でそこに至ったのだろうか?
その時の社長、故アンドリュー・グローブは、自著『パラノイアだけが生き残る』(佐々木かをり 訳、日経BP)において、当時の会長兼CEOで、先月94歳で逝去したゴードン・ムーアとの意思決定場面をこのように記述している。
“目標もなく迷っている状態がすでに一年近く続いていた、1985年半ばのある日のことだ。私は自分のオフィスで、わが社の会長兼CEOであったゴードン・ムーアとこの苦境について議論していた。
そこには悲観的なムードが漂っていた。私は窓の外に視線を移し、遠くで回っているグレート・アメリカ遊園地の大観覧車を見つめてから、再びゴードンに向かってこう尋ねた。
「もしわれわれが追い出され、取締役会が新しいCEOを任命したとしたら、その男は、いったいどんな策を取ると思うかい?」
ゴードンはきっぱりとこう答えた。 「メモリー事業からの撤退だろうな」。私は彼をじっと見つめた。悲しみも怒りももはや何も感じられないまま、私は言った。
「一度ドアの外に出て、戻ってこよう。そして、それをわれわれの手でやろうじゃないか」”
「もし〜だとしたら?」という仮定法型の問いは、自分の視点に凝り固まってしまった思考を柔らかくし、本質的な意思決定へと導く。そしてグローブがこのギリギリの場面でその問いを投げたからこそ、後の飛躍がある。
大観覧車を背景に、インテル社の役員オフィスで決意を固めるグローブとムーア。絵になりそうなこの1シーンこそ、経営史に残る意思決定の名場面のはずだ。
しかし、よく調べてみると...、実はそんな単純な名場面ではないことがわかる。結論から言えば、このやりとりは確かにあったものの、意思決定の本質的な場面ではないのだ。