世界的な人道支援の地ここにあり
よく考えてみると、神戸の街は1868年の開港で海外と結ばれ、欧米のビジネスマンたちが好んで住んだのがこの石垣のある北野の街だった。いまでもキリスト教の教会、イスラム教のモスク、ユダヤ教のシナゴーグ、ジャイナ教の寺院が半径500メートル以内に「同居」している。きっと、そのころの神戸の人たちには、ユダヤ人難民といっても、いつも街で顔を合わせる外国人と変わらなかったのであろう。そんな事実を知った福岡の心に、ある感情が芽生えたという。彼女が次のように語る。
「岩田さんたち研究者は、この石垣の存在をかねてから知っていました。ところが、メディアはそれに気づかず、ネット上にも情報がなかった。地元の人どころか、これを所有している学園の誰もが知らなかったのです。世界的な人道支援の地がここにあり、日本人が温かく迎え入れたという記録と記憶が消えかかっていました。これを伝えなければならないという責任感がわいてきたのです」
そこで、関係者らとともに2020年11月に石垣の横に案内看板を設置する。ところが、序幕式の2週間前に神戸でのユダヤ人を研究していた岩田隆義が79歳で急逝する。そのとき、あらためてこれを後世に伝える重みを福岡は実感したという。以後、この石垣やユダヤ人難民のことが地元テレビや新聞にとり上げられるようになったという。
最近になって、海外からの渡航制限が緩められると、ユダヤ人が暮らした証拠をひと目見ようと、この場所を訪れる人たちが増えてきた。それだけではない。中学校、高校、大学などから石垣を視察したいので説明をしてほしいという依頼が、彼女のもとに多く寄せられているという。
この2月12日、香川県立高松高校の1年生と2年生の29人が石垣の前に立った。県立高松高校は県内ではトップの進学校で、杉原の妻・幸子の母校でもある。そんな縁もあり、人道支援や平和学習のためにここを訪れたのだ。
参加した高校生の竹内睦美は「学校で活動するのと現地に来るのとは大きく違いました。こうしてリアルに語ってもらえると、私たちの世代からも次の時代に繋げていかなければと感じます」と話す。
実を言うと、福岡は大学を卒業したあと、大阪にあるテレビ局の朝日放送に入社した。最初の仕事はなんと報道カメラマン。約7キログラムもある業務用ビデオカメラを担いでいたという。阪神・淡路大震災では記者として最前線でも取材した。今回のユダヤ人難民のメモリアルとなる石垣の件は、ひょっとするとそんな彼女の「記者魂」にひさしぶりに大きな火がついたのではないだろうか。