後にこのビザは、「命のビザ」と呼ばれ、約5000人のユダヤ人難民の命を救ったとされ、彼の勇気ある行動は世界的に称賛されている。
ビザを得たユダヤ人たちは、シベリア鉄道を使ってソ連(現ロシア)のウラジオストクを経て、船で福井県敦賀市にたどり着いた。そのあと、ほとんどのユダヤ人たちが神戸へと移った。
そして、この地で数カ月から1年ほどを暮らし、米国、カナダ、上海など受け入れ体制のある第三国へ旅立ったといわれている。
きっかけは杉原千畝の母校からの電話
そんなユダヤ人たちが神戸で生活していたことを伝える「石垣」が、いま注目を集めはじめた。というのも、第二次世界大戦中に大空襲を受けた神戸には、彼らが暮らしていた痕跡をしめす建物がまったく残されていない。だが、ユダヤ人難民の支援拠点であった「神戸ジューコム」がこの石垣の西側にあったことで、2年前からこの場所が知られるようになってきたのだ。
石垣のある場所は、異国情緒あふれるレトロな北野の街にあり、外国人異人館がたくさんあり、観光客が多いエリアだ。
石垣がクローズアップされるにあたり、キーパーソンとなったのが福岡美和だ。彼女は敷地内にこの石垣がある学校法人コンピュータ総合学園で事務長代理を務める。彼女の義理の父がこの学園を開園している。
福岡の話によれば、きっかけは2018年、杉原千畝の母校、愛知県立瑞陵高校からの1本の電話だったという。それは、杉原を讃える記念施設の展示物に、いま学園の敷地内にある石垣の写真を使わせてほしいというものだった。この石垣は第二次大戦中にソ連を経由して神戸に逃れてきたユダヤ人を支援する施設に使われていたものだというのだ。
寝耳に水だった福岡は、確証を得ようと調べ始めたという。たった1つ見つけたのが、ニューヨークにある世界的なユダヤ人支援組織から神戸ジューコムにあてた電報の画像だった。なんと、その宛先の住所が福岡の働くコンピュータ総合学園のものと一致していたのだ。
その後に福岡は、神戸のユダヤ人難民の調査をしていた岩田隆義と出会う。岩田は神戸市立小学校の校長や異人館・風見鶏の館の館長も務めた歴史研究家だ。
岩田が差し出した1枚の写真を見たとき、福岡は身が引き締まる思いがしたという。ユダヤ人たちの背後に写っているのは、学園に残っている石垣と同じものだとわかったからだ。
彼の話によれば、その頃の神戸の人々は、心を開いてユダヤ人の難民を受け入れ、さまざまなあたたかい交流が生まれていたという。ユダヤ人たちに思いやりの心で接し、亡命先が見つかるまで親身になって世話をしていたというのだ。
実は神戸市も、2016年に、当時のユダヤ人たちのことを後世に残そうと証言や写真を提供してほしいと住民に呼びかけていた。1940年頃といえば、日本はナチス政権下のドイツと同盟関係にあり、国としては難しい立場であった。だが、寄せられた53点の写真や手記から、ユダヤ人一家を家族のように迎えるなど、フレンドリーな神戸の人たちの姿が浮き彫りになった。