「浅はかで脇の甘い男」の姿が浮き彫りに
菊代は、宗吉の商売が順調だった頃に知り合った料亭の仲居である。原作の1959年当時は、妻以外に愛人を持つのは男の甲斐性といった考え方が世の中に残っており、映画公開の1978年もまだそれが何とか理解される時代だった。回想場面で、宗吉は菊代の妊娠に心からの喜びを見せており、3人の子供が彼に懐いていることからしても、時々しか顔を見せないがそれなりに良いお父さんとして振る舞ってきたことが窺われる。
だが冒頭で、押しかけてきた菊代が一瞬退くように、埼玉県川越市の小さな路地の中にある宗吉の印刷所兼住居敷地内は、火事を出した形跡が無残に残ったままだ。焼け跡が放置されているさまは、捨て鉢ともだらしないともつかない荒れた印象を与える。職人を一人雇い、妻も働く家内工場のような地味な店構えで、暮らし向きも楽そうには見えない。
それらから、もともと妾など持てる分際ではなかったのに、初めてのささやかな成功体験にしがみつき、その場の欲望と状況に流され、相手の歓心を得たいばかりに無理を重ねてきた、浅はかで脇の甘い男の像が浮かび上がってくる。
宗吉の冷たさを詰りヒステリックに責め立てる菊代と、それに輪をかけた迫力で夫と彼女を恫喝するお梅。どちらの女の言い分もその立場に立ってみれば一理あり、当の宗吉はおろおろと取り繕うことしかできない。
本当に宗吉の子なのか?と疑うお梅の言葉と、菊代のところに男が出入りしていたという訪ね先近所の住人の証言は、宗吉を自信喪失と失意の中に落とす。
取引先の前でお梅からあけすけな嫌味を言われても、よちよち歩きの庄二にお梅がせっかんしていても、宗吉は何もできない。まるで、自分が被害者であるかのような受け身で弱々しい彼の態度は、驚くべきことに「子供を捨てる」という無慈悲な行為においても一貫している。
せっかんのシーンでは、見かねた職人・阿久津(蟹江敬三)が宗吉に代わって庄司をお梅から取り上げる。唯一まともな神経をもつこの男は、暗いばかりのこのドラマの中で時に軽妙な存在感で救いとなっていた。ただ、彼が、すさんでいく竹中家の空気に耐えきれず退職を願い出る中盤以降、宗吉は、妾の子らを疎むあまりますます鬼と化したお梅の言いなりになっていく。