カート・ヴォネガットが描いた「振動を養分にして生きる水星の生物」
帯文に書かれ、本文中でも登場する「I‘m here.」「I’m glad you are there.」(私はここにいる。あなたがそこにいてよかった)はアメリカ文学を代表する作家、カート・ヴォネガットの初期作『タイタンの妖女』に登場する一節である。振動を養分にして生きる水星の生物「ハルモニア」はあらゆる欲求や感情から解放されているため、上記二つの言葉以外を持っていないとされている。この、あまりにも素朴な言葉を徹底的に突き詰め、書き尽くしたのが本作であると言っても過言ではないだろう。本作では様々な要素が両立し、調和し、互いが互いを認め合う。しかし決して一体化し、どちらかが消えてしまうわけではない。死生観にせよ恋愛関係にせよ、異なる要素が両立している限り、一つの解答は決して見出されない。警句とも呼べる二つのフレーズから出発した物語は、二つのままで帰結するしかないのだ。
作者は「解答がない」という解答を、筋書きの揺れ動きによって表現したのだろう。安易で一義的な結末に飛びつかなかったことこそ、本作が多くの読者に門戸を開いている証拠といえるのではないだろうか。
本作は作者自身の懊悩の軌跡が明確に刻まれている物語だ。作者の中に芽生えた問いは決して自己完結するものではなく、普遍的なメッセージと穏やかな文体によって読者を物語へ誘い込む引力を有している。それこそ、ありのままの宇宙に放り込まれたような心持ちになる読書体験を得ることができる。
2005年に連載が始まり、読者に向けて打ち上げられた本作は一時休止を経て、2022年、単行本化という新たな推進力を得て幅広い人々に読まれるきっかけを掴んだ。ボイジャーのメッセージが届くには少なくとも数万年かかるが、本作は15年で済んだ。それは同時に、今後未知なる読者に何度も発見される機会を得たということでもある。本作に込められたテーマは一朝一夕に古びてしまうものではない。
ボイジャーと同じく、本作の旅も始まったばかりだ。