テクノプローブの勢いが鈍る兆しはまるでない。アップルやサムスンなどが毎年新しいスマートフォンやタブレットを発売しているほか、自動車メーカーも新車にスクリーンやセンサーを搭載するためにプローブカードを使用しているからだ。
「メーカーは、スマートフォンをより小型に、より薄くできるよう、複数の異なるチップをこれまで以上に近づけて配置するようになっています」
スカルナティはそう指摘する。
「そのすべてのピースを検査する。つまり、もっと多くのプローブカードが必要になるのです」
「複占」で混乱の時代にも安全な供給を
ミラノの北東にある小さな町で1935年に生まれたクリッパは、第2次世界大戦下で育った。子供時代、空襲の際には家族と暮らしていたアパートの下の地面に掘られた穴に避難していたという。
戦後は近隣のベルガモにある工業高校に進み、その後、初めての就職先となるエンジニアリング企業ブレーダで職を得た。クリッパが最初にマイクロチップの世界に足を踏み入れたのは60年、新聞に掲載されていた求人案内を目にし、半導体メーカーのSGSで働き始めた25歳のときのことだ。
同じ年、SGSはカリフォルニア州マウンテンビューのフェアチャイルド・セミコンダクターと合弁事業を立ち上げた。フェアチャイルドは、その5年前にテクノロジーのパイオニアであるゴードン・ムーアが共同創業した企業だ(ムーアは、のちのインテル設立者だ)。62年、SGSはクリッパをシリコンバレーに派遣。フェアチャイルドの画期的なテクノロジーについて学んで、イタリアにもち帰らせるためだった。クリッパは63年にイタリアに戻ると、欧州初となるシリコントランジスタの製造ラインの立ち上げに貢献し、以後数十年に及ぶSGSでのキャリアをスタートさせた。SGSは後にSTMとして知られるようになった。
それから数十年後、クリッパは田園地域にある自宅のキッチンでプローブカードを研究し始めた。彼に言わせれば、明らかにチャンスがあった。クリッパの雇用主が使っていたプローブカードはすべて米国の業者から調達されていたからだ。このころ、プローブカードは比較的低品質の消耗品で、使用後には修理を必要とした。
プローブカード
間もなく、当時19歳だったクリッパの息子クリスティアーノも参加。親子は顕微鏡や裁断機などを購入し、93年には自宅のガレージ、屋根裏部屋、地下室まで占拠して、クリッパの妻、マリアローザも事務に駆り出し、従業員を2人雇うまでになった。
「1990年代は、初期の従業員たちが家中をうろついていた記憶があります」
当時10代前半だったクリッパの息子のロベルトは、2021年3月にポッドキャスト番組のヴォーチ・ディ・インプレーザのなかでそう語っている。
そして1995年、クリッパはSTMを定年退職。正式にテクノプローブを設立した。96年には10人ほどの従業員とともに近郊のチェルヌスコ・ロンバルドーネの約800平方メートルの施設に入居。やがてほかの家族も事業に加わった。99年には、電気工学と通信の学位を取得して大学を卒業したばかりの甥のステファノ・フェリーチが、2002年には末息子で化学エンジニアになっていたロベルトが入社した。