もちろん父の判断は間違っていた。グリュフィド牧師との密やかな恋に敗れたアンハードは望まぬ結婚をし、やがて夫と別居して失意の日々を送ることになる。彼女のそうした振る舞いは村で噂され、モーガン家への敵意となって返ってくる。
ストに反対したことも娘の結婚も、父としては最善の道を選んだつもりだったのに、すべては裏目に出るのだ。
子どもに対する父の必死な思いは、グリュフィド牧師をヒューの家庭教師につけ、食卓で一緒に計算問題を解こうとした場面によく現れている。問題の意味がわからない妻のツッコミに言い返すコミカルな場面だ。
産業資本主義の波が押し寄せ鉱山が先行き不透明な中、勉強のできるヒューを国立学校に入れこの階層から抜け出させようとする父は、自分たちが没落していく将来を感知している。
晴れて入学した学校でいじめに遭ったヒューに「顔の傷ごとに硬貨をやる」と鼓舞したり、喧嘩に勝たせるため元拳闘家を呼んでボクシングを習わせたりするのは、「男は腕っぷしだ」と信じる、いかにも古風で無頼な父親らしい。しかしこれは一方で、人生の戦いが父から末の息子に移っていることを意味するだろう。
モーガン家の光と影
ドラマが終盤に近づくにつれ、モーガン家の光と影はより厳しく際立ってくる。炭鉱の事故で一家の希望の星であった長兄が亡くなり、その直後に妻ブロンが出産したり、ヒューが進学をやめて炭鉱で働くと言い出したり。さらに、次男・三男が解雇されて故郷から出ていったり、偽善的で陰湿な村人たちに失望したグリュフィド牧師が激烈な説教をしたり。
父はもはやなす術もなくすべてを受け入れていくだけだが、世界地図を広げて家を出た子どもたちの居場所を示す場面では、備わった生来の楽天性と快活さがほの見える。
この作品の優れた点のひとつは、悲劇が起こっても愁嘆場を長々と描かず、それを乗り越えたことを示唆する場面転換によって、彼らの逞しさを浮かび上がらせているところだ。それはそのまま、この父の美点でもある。
ヒューが最後の希望に
炭坑夫となったヒューが夫を亡くした兄嫁ブロンと共に暮らすことになった時、父の家には1人の子どももいなくなる。さらには、それまで家を出ていく息子たちに聖書の一節を読んで送り出すほど信心深かった父は、人々がモーガン家を糾弾すると聞いて、初めて教会での集会を欠席する。
その直後、落盤事故により彼に突然の死が訪れるのは偶然ではない。親の役目が終わり、かつての大家族が崩壊を迎え、村の共同体の一員という立場も揺らいだ時、父は自身を支える基盤を失ったのだ。
かつて長兄の骸を胸に抱き、ケージで地下から上がってきた父は最期、末息子の胸に抱かれて上がってくる。強く陰影の刻まれた父子の姿は「ピエタ」(十字架から降ろされたキリストを抱くマリア)のような崇高さに満ち、ケージの手すりに両腕を伸ばして彼らを見守る姿勢のグリュフィド牧師は、あたかも羽を広げた守護天使のようである。
6人の息子のうち5人は父を継ぐことはなく、母、長女、兄嫁の3人の女は愛する人を喪った。最後の希望となったヒューがその後、父がつくり上げたような家族を持たなかっただろうことは、冒頭のモノローグから推測できる。
父ギルム・モーガンの「生」は、強い父を中心とした幸福な大家族という、今は失われた夢の最後の輝きだったのだ。
連載:シネマの男〜父なき時代のファーザーシップ
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