「みんな違う現実を生きている」現実科学と社会の豊かさ
──次に研究の話を。藤井さんは2018年の夏ごろから「現実科学」という学問を独自に提唱されています。これは従来の科学とどう違うのでしょうか。
「現実科学」は、“みんな違う現実を生きている”という、当たり前だけど見過ごされがちな事実に立脚しています。従来の科学は、ひとつの共通の現実のもと人々が繋がって活動しているという前提で成り立っていますが、実際に僕らが生きている現実は互いに異なっていて乖離がある。そして、どちらの見方がより人の幸せに貢献できるかを考えると、僕は後者なのではないかと思いました。
例えば、今は多様性の尊重が盛んに叫ばれていますが、それはひとつの共通した現実がある中で、そこから切り捨てられた一部の人々を認めてあげましょうという考え方が根本にあります。一方で「現実科学」の場合は、人は多様な現実を生きているという考えが前提にあるので、ダイバーシティや多様性といった言葉がそもそもいらない。
ただ、現代や未来における個人の現実は、SRやメタバースといった高度なテクノロジーの発達によって現実が改変されたり、意識しないうちにバイアスがかかって世界の捉え方が変わっていくでしょう。現実科学は、そうした「意識/無意識」「自然現実/人工現実」という両軸から世界を解釈しようと試みている研究です。
──僕の祖母が高齢で老人ホームにいるのですが、その祖母の娘、つまり僕の叔母が2年くらい前に亡くなりました。でも祖母には、その事実が心身の負荷になるだろうと、叔母の死を未だに知らせることができずにいます。なので、祖母の中では未だに叔母が生き続けている。本来こうした現実の差というのは、至る所に存在しているのかなと。
実は私も似たような経験があるので、非常によくわかります。一方で、そういう特別な状況ではなくても今ここで対面している僕と出村さんですら、すでに別の現実世界に生きているともいえますね。
──「現実を操作する」という観点でもう一つ思い出した事例があります。以前、「DEEEP」というインスタレーション作品をつくったのですが、これは簡単にいうと体験者に地下深くの暗闇の中へ“落ち続けている”感覚を擬似的に味わってもらうというもの。体験者には仕組みを一切伝えず目隠しをして没入してもらうのですが、中には「これ、何メートルぐらい掘ったんですか?」という感想を漏らす人もいて。どこかで「もしかしたら現実なのでは」と信じ込ませることができたのかなと嬉しくなったんですよね。
僕は、現実を操作する方法として、大きく「生理的な機能の操作」と「認知の操作」の二種類があると考えています。
まず「生理的な機能の操作」では、リアルと遜色ない現実を新たにつくり出すもの。例えば、目の前の仮想オブジェクトをリアルと遜色ない解像度で映し出し、目や頭の動きの速さに追従して裸眼と変わらない状態を再現出来たら、完璧に人の目は騙されますよね。