全身麻痺も経験。患者になって、私が一番怖かったこと|#人工呼吸のセラピスト

連載「人工呼吸のセラピスト」

記録的な暖冬となった2007年。真冬のはずの2月19日も、名古屋の最低気温は3月中旬並みの穏やかさだった。そんな夜に異変が起きた。

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前の年に重症筋無力症(MG)と診断され、病室で車いすに座っていた押富俊恵さんは突然、全身の脱力感に襲われた。体の支えが効かず、床にずり落ちた押富さんを看護師が慌てて介抱したが、息を吸うことも吐くこともできず、そのまま意識を失った。

呼吸筋の急激な筋力低下によって起こる「クリーゼ」だった。

人工呼吸でつなぐ命 存在価値が分からない日々


当直医がアンビューバック(手動の呼吸補助器具)を使って、気管切開のカニューレから空気を送り込んだ。ICU(集中治療室)で人工呼吸器につなぐ準備が進められ、主治医のドラ先生も家から駆け付けた。

押富さんが気づいたときは、夜が明けていた。

両親の姿もあった。人工呼吸という緊急事態に、母たつ江さんが「外せるんですよね?」と、心配する様子を、眠ったふりをしながら聞き耳を立てた。申し訳なさでいっぱいだった。

そこから3カ月間、血漿交換によって症状の改善を図りながら、人工呼吸で命を支える日々が続いた。

血漿交換とは、血液を血球成分と血漿成分に分離した後、病気の原因物質を含む血漿を廃棄して、健常な人の血漿と入れ替えるもの。押富さんが受けた治療の中で最も効果があったが、保険の適応に制限があったうえ、効き目が持続する時間が短く、普段は使いにくい治療だった。一進一退の状態が続いた。

天井とテレビを眺めるだけの日々に、涙が止まらなくなったり「呼吸してないのに、なんで生きているんだろう」と、思ったりもした。「死にたいわけではないけれど、自分の存在価値が分らなかった」と、のちにブログにつづっている。

そんな中で一時的に経験したのが「完全閉じこもり状態」と呼ばれる全身麻痺だった。

2013年の作業療法ジャーナルの連載では「一番怖かったこと」として、その体験を挙げている。

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私が一番怖かったこと。それは、「自分の意思を伝えることができなくなったとき」です。(中略) 呼吸器がついていて声は出ない、脱力が酷くて手足は自力で動かすことはできず筆談もできない。瞼が下がって目を開けていられないので何も見えない──。

私は、自分の意思を伝える方法がないと思いました。目を閉じて真っ暗な世界で1人ぼっちでいるような、そんな感覚になりました。コミュニケーションがとれないと、次第に声をかけられることも少なくなってきます。とても孤独でした。みんなに私という存在が忘れられてしまうかもしれない。何をされるにしても自分の意志は反映されない。それは恐怖でした。
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文=安藤明夫

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