全身麻痺も経験。患者になって、私が一番怖かったこと|#人工呼吸のセラピスト

連載「人工呼吸のセラピスト」


 点滴にきた医師は、無言で何度も針を刺しました。もちろん痛みは感じますが、そんなことはお構いなしでした。清拭にきた看護師は、私の体を拭きながらプライベートな会話を始めました。私なんて存在しないかのようでした。セラピストは、ただ黙々と関節を動かしました。私は何をされるのかビクビクしていました。

ただ自分の意志を表出する手段がないだけで、私自身は今までと何ら変わりありません。だけど、みんなの態度は明らかに違いました。聞こえているし、わかっている──。なのに「どうせわかってないから」と思われているようでした。感情も感覚もすべて無視されているような虚しさがあり、「私はものじゃない」と思ったけれど、次第に「どうでもいい……」とさえ思いました。

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コミュニケーションの手段を失う中で「物のように扱われる」という理不尽な体験。その背景にあるのは「神経難病の領域での緩和ケアの遅れ」という大きな課題だ。

「患者の反応がなくても声掛け」当たり前の配慮に


患者の心身の痛み・苦しみを軽減することを目指す緩和ケアは、日本ではホスピスなどがん医療の領域で発達した。最近では、終末期だけでなく「がんと診断されたときからの緩和ケアの推進」が重点課題として打ち出されている(2012年・第2期がん対策推進基本計画)。

しかし、ALS(筋萎縮性側索硬化症)をはじめとする神経難病では、患者が全身の筋肉を動かせなくなっていく究極の苦しみを経験することが多いのに、緩和ケアの専門性を持った医師、看護師らが寄り添うことはめったにない。

がん看護や高齢者のみとりの場面では「患者の反応がなくても聞こえていることを意識して声掛けする」といった対応は、割と当たり前に行われているのだが、押富さんのケースではそうした配慮もできていなかったようだ。

ALSの患者は人工呼吸の装着が必要になると、それを望まずに自然死を選ぶという選択が6割に及ぶと言われる。人工呼吸器が延命治療である以上、装着するかしないかは患者自身が決めるべきことだが、その際に「装着して生きることの意味」を一緒に考えてくれる専門職はそばにいないことが多いのだ。

連載「人工呼吸のセラピスト」
人工呼吸器を装着する直前。大学病院の屋上にて(2007年3月)
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文=安藤明夫

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