押富さんは2010年のブログで、クリーゼとそれに続く完全閉じこもり状態について、次のように振り返っている。
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重症筋無力症は呼吸筋麻痺が起きて呼吸できなくなっても、適切な治療を受ければ命を落とすことはまずない。
時間がかかっても、呼吸器は離脱できる。
だから耐えることができたと思う。
あれが一生続いたら──想像できない。
神経内科の患者さんの中には、進行性の病気で呼吸器を付けている人がいる。
本当にすごいと思う。
すごいって言葉はおかしいかもしれないけど、強い精神力が必要だ。
私は、そんな友達が何人もできた。
それは私の大きな自慢だ。
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自身の体験を深刻に見せるのではなく、むしろALSの友人たちへのリスペクトが感じられる一文だ。
その後、自身も肺の状態の悪化とともに、24時間人工呼吸の身になったのだが、その時も「人工呼吸器を付けてもできることはたくさんある。多くの人に知ってほしい」とポジティブに受け止めらえるようになっていた。
人生で「一番つらかったこと」から
だが、「一番怖かったこと」が起きた2007年には「一番つらかったこと」も起きた。
退院のめどが立たないまま1年間の休職期間の終了が迫り、勤め先の偕行会リハビリテーション病院を退職することになったのだ。
6月の土砂降りの雨の日。直属の上司・赤坂佳美さんと事務長が病室を訪れ、手続きの説明をした。押富さんはベッドに横たわったまま、うなずきながら聞いた。
事務長が「元気になったら、また一緒に働こうな」と慰めの言葉をかけたが、赤坂さんは相槌を打つことができなかった。そんな日が来るとは思えないほど、病状は深刻だった。
職場で一番のハッスルガールで、緊急コールが鳴ると全速力で駆けつけた押富さん。就職1年目から病院の夏まつりの企画を仕切っていた押富さん。「どうして、この子が…」と赤坂さんはやりきれない悲しみが胸にこみ上げてきたという。
そんな赤坂さんや事務長も想像もしなかった形で、押富さんは5年後に“職場復帰”を果たすことになる。患者に接する作業療法士ではなく、看護、介護、リハビリスタッフの研修講師として。電動車いすに酸素ボンベを積んだ「当事者セラピスト」の晴れ舞台だった。
連載:人工呼吸のセラピスト