ちょうどこれと同じ日に、マットは共同研究者のトム・ウォルシュから、ある知らせを受けていた。大手製薬会社が開発中の新規分子のなかに、スーパー耐性菌に感染した患者の治療薬候補になりそうな分子があるので、治療薬として承認を受けるために、臨床試験(治験)を実施してほしいという依頼が来ているというのだ。トムは原因不明の感染症に関する世界的権威であり、治療困難な感染症患者を抱える世界中の医師から相談を受けながら、国際研究チームのリーダーとして新しい抗菌薬の開発にも取り組んでいる。マットは、トムと一緒にこの治験を引き受けることにした。その瞬間から、スーパー耐性菌の蔓延を阻止するための闘いの最前線に身を置くことになったのだ。
ここで念のために補足しておくが、抗菌薬(抗生物質など)は、細菌が原因の感染症に対する治療薬である。ウイルスと細菌は大きさも増殖の仕組みも異なるので、ウイルスに抗菌薬は効かない。ウイルス感染症の治療には抗ウイルス薬が必要だ。油断すると混同しそうになるが、少し意識しておくと、理解の助けになるかもしれない。
とはいえ、抗菌薬にせよ、抗ウイルス薬にせよ、新しい治療薬として承認を受けるためには、治験を実施して安全性と有効性を確認する必要がある。薬の種類は違っても、治験を担当する医師らが直面する現実や苦労には共通する部分も多いだろう。
「治験」は簡単には進まない
治験を実施するには、まず、プロトコールと呼ばれる治験計画書を作成する必要がある。本書のなかでトムは「プロトコールですべてが決まる」と言っている。薬の「候補」をヒトに試すことになるのだから、治験に参加する人たちの人権や安全が守られているか、倫理的に不適切な点はないか、副作用や効果の評価方法は科学的に正しいか、といった点に十分に配慮しなければならない。完成した計画書は、利害関係のない治験審査委員会(IRB)による審査を受ける。この審査に通らなければ、治験を実施することはできない。審査に通るまで、何度でも計画書を修正することになるわけだ。
プロトコールが承認されれば、いよいよ治験が始まる。プロトコールで定められた治験対象者の条件に合いそうな患者が見つかったら、その患者と面談し、本当に条件に合っているかを確認し、治験について詳しい説明をしたうえで、インフォームド・コンセントを取得しなくてはならない。マット自身も治験前期(観察試験)に参加してくれるボランティアの患者を探して回ることになるのだが──人に歴史あり。同じような症状に苦しむ患者だとしても、まったく同じ患者などいない。それぞれにさまざまな事情を抱えている。治験の結果は数字で表されるが、医師が向き合う相手は、生身の人間だ。そして、面談を通してそこに立ち入ることになる医師自身もまた人間なのだということを、本書は臨場感をもって描き出している。