また、米国の研究者キャリー・マリスは、バイオテクノロジー企業に勤めていた1983年、ドライブ中にポリメラーゼ連鎖反応(PCR)法の原理を思いついたという。
近年すっかり有名になったこのPCR法だが、実は各種感染症の検査に限らず、生物の進化解析から犯罪捜査まで、遺伝子を扱うどの研究室でも使われている超定番の手法だ。微量のサンプルに試薬を加えて温度を繰り返し上げ下げするだけで、DNAの断片を2倍、4倍、8倍……と急速に増やすことができる優れ技である(マリスは1993年にノーベル化学賞を受賞)。
マリスは当時、社内で特定の遺伝子疾患の検出法を開発しようと躍起になっていた。被験者から採取されるDNAのなかで、目当ての遺伝子の情報が記された領域は
ごく一部だ。変異を検出するにはDNAの特定の配列に狙いを定め、その断片を増幅する必要がある。技術的な課題に頭を悩ませたマリスだが、週末にいったん仕事を離れ、夜の山道を運転する中で妙な感覚を抱いたそうだ。曲がりくねった道がDNAの分子を思い起こさせ、ライトの照らす景色が細部のヒントにつながっていく。
マリスは車を路肩に止めて着想を整理し、それがPCR法の基礎となった。助手席では交際相手がすやすやと眠っていたという。
これらの事例で注目したいのは、1. 物事を掘り下げ、2. その後ふと力を抜いて対象を俯瞰するという視点の変化だ。対象に向き合う1の段階が重要なのはいわずもがなだが、その集中が一時的に解除され、無意識下の思考が始まる2の段階がアイデアの融合を促す。移動や休息には、身体の変化を通じて私たちの「視点」を文字通り変える効果があるようだ。
過度な見切りはイノベーションの敵?
ところで、真に革新的な発見には、発見者自身もすぐにはその発展可能性に気づかないものも多い。1960年代に下村脩によってオワンクラゲから単離された緑色蛍光タンパク質も、その応用可能性が見いだされたのは長い年月がたってからだ(下村は2008年にノーベル化学賞を受賞)。
米国で活躍するカナダ出身の疫学者、ステファニー・ストラスディーは、ほとんどの抗生物質が効かない細菌(超スーパー多剤耐性バ グ菌に感染した夫を救うべく論文を読みあさり、ある忘れられた治療法の存在を知った。それは、細菌を標的とするウイルス(バクテリオファージ)を体内に送り込む「ファージ療法」。いわば毒をもって毒を制す戦略だ。
ファージ療法は北米での研究がほぼ打ち切られ、東欧などで細々と実施されているのみだった。だが、ストラスディーは世界各地の研究者や医師と連携して米国内での治療実現にこぎつけ、夫のトーマス・パターソンは死の淵から生還した(パターソン症例)。ストラスディーはその後、米国でファージ療法の研究センターの立ち上げにかかわり、経緯を夫との共著書にまとめている。