──いろんなものが飾られていますが、特にこのだるまは目を引きますね。
祖父に関する好きなエピソードの中に、「片目のだるま」というのがあります。
祖父の「片目のだるま」のエピソードを、山内がアートとして表現
祖父は22歳の若さで任天堂を継ぎましたが、ゲームビジネスが花開いたのは50歳を過ぎてからでした。その祖父の部屋に鎮座するだるまがずっと片目だったので、私の従兄弟が「このだるまはいつ両目になるんですか?」と尋ねると、祖父は笑って「両目になることは一生ない」と言ったそうなんです。
祖父の人生観、価値観に触れられるエピソードなので、この建物と同じ年代ものの古物のだるまを探し、片目を削って飾りました。
花札を題材にしたデジタルアート
また、ライブラリーの入り口には、ライゾマティクスさんにデジタルアートをつくっていただきました。インタラクティブに人が関わることで映像が変化するのですが、これもまさに任天堂のゲームの本質ではないかなと。
任天堂の思想、原点を表現した展示に触れることで、皆さんの会話がさまざまに発展、活性化したらとても嬉しいです。
──ホテルになる以前、旧本社社屋は山内さんにとってどのような場所でしたか。
僕個人だけでなく、山内家にとって思い出深い場所です。北から南へ向かって、事務所棟、住居棟、倉庫の順に建てられているのですが、曽祖母は住居棟に住んでいましたし、祖父もいっときここで育ちました。
曽祖母が亡くなってからは、住居棟の1階に生活機能を残し、曽祖母の月命日には家族総出でやってきて、仏壇に手を合わせたものです。
──2013年、祖父の山内溥さんが亡くなられた際、遺言状を開くと、孫である山内さんも相続人になっていた。しかも、それ以前から山内さんは溥さんの養子となっていたことは、溥さんと克仁さん以外は誰も知らないことだったそうですね。
はい。当時、私は大学生でした。
──あらためて、祖父の溥さん、お父上の克仁さんは、山内さんにとってそれぞれどのような存在ですか。
……言葉を紡ぐのが難しいのですが、父とは戸籍上、兄弟となり、一般的な親子関係とは違う関係に進みつつあります。山内溥の築いたものに対する受け止め方も、本来は孫である私と息子である父とでは当然ギャップがあった。でも、いまは同じものを背負う戦友のように感じています。
祖父は、本当に偉大な人。祖父の決定によって、私の現在のポジションがあるわけで、常に「山内溥ならどうするだろう?」ということを自らに問いかけるようにしています。
「自分の祖父を研究する」と言うとちょっと変ですが、その研究を通して、自分の中で解像度がどんどん上がってきました。それはもしかしたら実際の祖父とは違うかもしれないけれど、僕のコンパスになっているのは間違いありません。