巨大な前方後円墳は誰のもの? 五色塚古墳のナゾ

五色塚古墳


さらに、五色塚古墳は、佐紀盾列の古墳と形が同じで、大きさだけが異なる「相似形」の古墳です。ヤマト王権が設計図を渡して、さらに測量や土木工事の技術者まで派遣したと思われます。

なぜなら、墳丘を覆う葺石(ふきいし)が敷き詰められ3段になっている古墳自体の構造、さらに古墳の上に置かれた埴輪の製造方法が、ヤマト王権のものと一致しているからです。

これを踏まえると、五色塚古墳に眠る人物は、ヤマト王権との間で、他の豪族たちとは異質な、何か特別な関係を持っていたと推察されます。

──現在、五色塚古墳から見られる明石海峡から淡路島の絶景は、きっとその当時も望めたはず。ここに巨大古墳を造ったのは、どのような人物であったのか。

不思議なのは、この古墳の近辺に当時の集落や田畑の痕跡がないことです。古墳は葬られた人物が住んでいた集落の近くに造られることが多いのですが、人々がいたのは、北西に5km以上離れた明石川の流域です。なので、明石海峡を望むこの地にわざわざ古墳を造ろうとする積極的な理由が、何かあったのではないかと考えられます。

古墳の表面に200万個以上敷かれていた直径10〜20センチメートルほどの葺石(ふきいし)からその謎解きができます。これらの石は淡路島から船で運ばれてきました。とてつもない量です。これらを運べたのは、潮流が速くいまでも海難事故が多い明石海峡を渡る際、船をうまく操れるノウハウや技術を持っていた人たちだったと考えられます。

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淡路島から運ばれた葺石

中国大陸からヤマト政権のある奈良に向かう船は、必ずここを通ります。なので、その人たちを統べる人物がこの海峡を掌握していて、ヤマト王権とも特別な関係があったと思われます。

注目すべき点はまだあります。この時代は権力が親から子へと世襲されていたので、同じくらいの大きさの古墳が近隣に立て続けに造られていました。しかし、五色塚古墳の築造された年代の前後には同じ大きさの古墳が周辺にはありません。

これらをまとめると「奈良地方と中国大陸との往き来でカギを握る、明石海峡を抑えていた権力者が、4世紀後半に実在した。全国各地に勢力を拡大させつつあるヤマト王権は、この人物を特に重要だと考え、他に類をみない大王クラスの前方後円墳の築造を許した。ところが、周囲に同様の古墳がないことから、なぜかこの関係はわずか一代限りで終わった」と考えられます。


五色塚古墳の埋葬施設は、現在に至るまで発掘調査は行われていない。過去に盗掘があったことも確認されていないので、もしかすると1600年以上前の埋葬施設である石室がそのまま残されているかもしれない。

だが、既知で溢れ返ったこの世界のなかで、この謎はそっとこのままにしておきたいという思いもある。そうすることで、五色塚古墳を訪れた人々の想像力を無限に掻き立て、パワースポットとしてこれからも親しまれる場所になるはずである。

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後円部の頂上がパワースポットといわれている

連載:地方発イノベーションの秘訣

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文・写真=多名部重則

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