大きさでは全国で約40番目、誰もが古墳の頂上にまで登ることができる。そもそも古墳といえば、樹木が茂り、森のようになっているので、仮に登ることができても、頂きからの景色は期待できない。ところが五色塚古墳は、1975年に約1600年前の姿に復元され、古墳の上からは淡路島や明石海峡大橋が望める絶景が楽しめるのだ。
また、この古墳に眠る人物は「この周辺を支配した豪族」といわれているが、いまだに正確に誰であるかは明らかになっていない。そのミステリアスな成り立ちもあってか、パワースポットとしても注目され、兵庫県内だけでなく関東や九州からもこの古墳を訪れる人が後を立たず、特に若い女性が多いという。
謎の多い五色塚古墳だが、誰によって、なぜこの地に造られたのか、五色塚古墳を管理する神戸市文化財課長の安田滋に話を聞いた。
五色塚古墳を管理する神戸市文化財課長の安田 滋
──五色塚古墳が造られた頃の日本はどのような状況であったのか。
五色塚古墳が造られたのは4世紀後半です。その頃、奈良盆地を中心に「ヤマト王権」という一大勢力がありました。ヤマト王権は各地の豪族と同盟関係を結ぶことで、徐々に勢力を拡大させていきます。まさしく日本の国の骨格がつくられつつあった時代です。
現在、研究者の間での有力な考え方では、3世紀にあった邪馬台国がヤマト王権の起源であり、奈良盆地に存在しながら、各地への影響力を強めはじめていました。そんな日本の国づくりの過渡期に造られたのが五色塚古墳なのです。
当時、ヤマト王権と地方の豪族との関係を示すために造られたのが「前方後円墳」でした。ヤマト王権の大王(おおきみ)の墓として巨大な古墳が造られるとともに、同盟関係のある豪族の墓として各地に前方後円墳が造られました。その規模は、ヤマト王権との関係が強くなるほど、さらに勢力が大きいほど、大きくなると考えられます。
明石海峡を掌握していた人物
──五色塚古墳は、全国で約40番目の大きさ。この順位にはあとの時代に造られた仁徳天皇陵(大仙陵古墳)などが含まれている。五色塚古墳が造られた頃はどうであったのか。
4世紀後半にヤマト王権の大王の墓とされるのが奈良県奈良市にある「佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群」です。その頃、4つの全長200メートルを越える古墳が造られています。じつは、五色塚古墳は全長194メートル、これら大王の墓に肩を並べるほどの大きさだったのです。