それでも、世間には何かにつけて、岸田首相や林外相に弱腰というレッテルを貼りたがる空気がある。政府関係者の一人は「昔は中国を嫌う理由が単なる印象論に過ぎなかった。最近は、尖閣諸島や南シナ海などでの行動から、中国が具体的な脅威になってきたため、世間の軸が全体的に右に振れているからだろう」と語る。まるで、1937年の盧溝橋事件当時、近衛文麿首相が取った強硬策「近衛の先手論」のようだ。近衛は当時、「軍人に先手を打って強硬な政策を唱えれば、陸軍の信頼を得ることができる。そうすれば、政治の主導権は政治家の手に戻り、陸軍を抑えることができる」と考えていたとされる
岸田首相も林外相も、中国や韓国との外交で意図的に強い姿勢で臨んでいるように見える。岸田内閣は経済安全保障担当閣僚と人権問題担当首相補佐官を新設した。林外相は11日、英国で韓国の鄭義溶外相と短時間面会したが、慰安婦・徴用工両判決で韓国側の譲歩を求める従来の方針を踏襲した。自民党議員の1人は「とにかく、強気に出ないと、党内から足をすくわれかねないと思っているようだ」と語る。
こうした政策や方針には評価されるべき点も多い。だが、自由に会談ができない状況について憂慮する声もある。現に米国は中国と激しくやり合っているが、オンラインや電話での会談も含め、首脳級や外相級の会談は頻繁に行っている。日本の中国専門家の1人も「林外相の訪中を非難する声が出たが、会わないと相手の考えがわからなくなる。誤解や偶発的な衝突を避けるためにも、会談は頻繁に行うべきだ」と語る。
最近、主要閣僚を歴任した自民党の元大物政治家と面会した。折しも、真珠湾攻撃80周年(21年12月8日)に近い日だったからか、歴史的な事件と政治家の関わりについての話になった。この元大物が挙げた人物は小村寿太郎だった。小村は外相だった当時の1905年、日本がロシアと結んだポーツマス条約に日本の全権代表の1人として参画した。当時の日本は日本海海戦での勝利に沸き立っていたが、日本がロシアと戦争を継続する力は残っていなかった。小村は賠償金要求などを放棄することで、条約締結にこぎ着けた。帰国した小村を待っていたのは、轟々たる世間の非難だったという。
現代において、小村の判断は、日本を泥沼の戦争から救ったとして評価されている。元大物は「こういう政治家が、今の日本にも必要なんじゃないのかね」と語った。
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