EY
Entrepreneur
Of The Year
2021 Japan
2021 Finalist Interview
アントレプレナーたちの熱源
#07
旭酒造株式会社
会長
桜井 博志
「ああ、美味しい」に人生をかけた実業家
あらゆる業界に、それぞれの決まりごとがある。既定のルールに、暗黙の了解。それらは何のために、誰のためにあるのか。
旭酒造の桜井博志は、業界の掟破りを重ねてきた。彼のアントレプレナーとしての熱量は、他社との競争ではなく、既成の枠や概念との闘いに注ぎ込まれてきた。
「酒の本質は、美味しいか・美味しくないかです。お客様の『ああ、美味しい』のひと言にすべてをかけたいと思います。私たちが大切にしないといけないのは、お客様が何を望んでいるかに対して真剣に応えること。その積み重ねがあれば、お客様の支持という結果が必ず返ってきます」
ピンチはチャンスに変えていくしかない
結論から言うと、桜井はお客様の支持を得た。彼が旭酒造を継いだ1984年に9,700万円だった売上高は、直近の2021年9月期で140億円を超えた。コロナ禍にもかかわらず、過去最高を更新している。ここまでの道のりにおいて桜井は、いくつものピンチをチャンスに変えてきた。
先代の父が逝去して桜井が三代目の社長に就任したとき、酒蔵の存在意義は見失われかけていた。昭和の時代には、二級酒あるいは三増酒(糖やアルコールを補填した酒:太平洋戦争時代の米不足の解決策として国税局の研究機関で考え出された)といった「酔うための安い酒」の需要がまだ根強く残っていた。地方の狭い商圏で普通酒「旭富士」を看板商品とする旭酒造も価格競争やノベルティなどのサービス競争に巻き込まれ、美味しい酒造りとは無縁の消耗戦で痩せ細るばかりだった。
「私が社長業を引き継いだとき、直近の10年間で売り上げは3分の1にまで落ちていました。もはや、廃業寸前だったのです。さまざまに逡巡して、私はひとつの決意を固めました。大事なのは、コストダウンやノベルティへの注力ではない。お客様が本当に美味しいと思う酒を造ることがうちの酒蔵の使命であり、最高レベルの品質設計に対する挑戦こそが私たちの生きる道だと」
酒質に寄与するものにすべての努力を集中することが、山口の山奥の小さな酒蔵にできる唯一にして最高の生き残り戦略だった。ここで桜井は、自身への誓いとも言えるビジョンを打ち立てた。
「酔うため 売るための酒でなく 味わうための酒を求めて」
腹をくくった桜井は、地べたを這うような努力を続けて、酒質と販売体制の改革を行った。そして、1990年に純米大吟醸「獺祭」が誕生した。
「大手メーカーのように大量生産によるスケールメリットは望んでも得られないので、こだわりの酒に特化せざるを得なかったのです。全国の広いマーケットに酒を出していかないと経営を維持できないため、首都圏などで市場開拓も進めていきました」
もともとの看板商品が売れていなかったという苦境があって、「獺祭」が生まれた。地元の岩国でも最後尾の売り上げという苦境を打破するために、東京という大きな市場に進出した。こうしてピンチをチャンスに変えていく桜井の快進撃が始まったのだ。
後ろ向きの煩雑な悩みをなくして、ただひと筋に美味しいお酒を造り、ただひたすらに品質で勝負する。私どもは、与えられた条件のなかでよりよい品質を求めることがすべてと単純に考えています。──旭酒造
会長 桜井博志
杜氏制度との決別で新時代の酒造りへ
桜井は、結果がすべてだと断言する。設備や技術といった手法は、そのために存在している。
「いやなんですよ。単なる手法のひとつに過ぎなかったものがいつの間にか目標や条件になったり、過去の手法にいつまでも縛られたりして、自分たちが存在する意義を見失ってしまうのは。私は伝統産業としての酒蔵という仕事に誇りをもっていますが、手法にこだわりはありません。より優れた酒を目指して常に変わることこそ、旭酒造の伝統でありたいと思います」
旭酒造において最大の自己改革と言えるのが、杜氏による酒造りからの脱却だ。秋の訪れとともに杜氏が蔵人を連れて酒蔵にやってきて、酒造りに適した寒い冬の間に酒を造り、春になるとできあがった酒を酒蔵に残して杜氏たちは地元に帰り、農業など彼らの本業に従事する。そして、酒蔵は彼らの残した酒を一年間売る。酒造りに対する権限は杜氏がもち、酒蔵の経営陣は口を出さずに販売に徹するのが、古くからの慣習だった。
「旭酒造は杜氏による冬期の酒造りから、社員による通年の四季醸造へとシステムそのものを変えました。いまでは、精米・洗米・蒸米・麹造り・仕込み(発酵)・上槽(搾り)といったプロセスの情報をすべてデータ化しています。属人的な“経験と勘”から、徹底した“数値管理”に移行したのです。搾りの工程で酒造業界としては日本ではじめて遠心分離機を導入するなど、最新のテクノロジーも取り入れてきました」
2021年のいまでこそ、DXやデータドリブンといったキーワードが経営のホットトピックスとなっているが、これを20年以上も前から行ってきたのが旭酒造だ。しかも、酒造りという伝統産業で成し遂げてきた先進性と実行力は驚愕に値する。
12階建て本社蔵の2階にある検査室。ここに酒の醗酵状態や麹の成分分析といったデータが集まり、酒造り全体の司令塔の役割を担っている。
だからと言って、人の手による酒造りを疎かにしてきたわけではない。むしろ逆であり、同様の製造工程に換算して、2.5倍から3倍近くも多くの手作業を加えている。例えば、一般的には機械を使うと1時間ほどで終わる洗米も朝から晩まで5〜6人がかりで手洗いするという。水分含有量を0.1%の精度でコントロールするための最適解を見つけ出しているのだ。徹底した数値管理も、むしろ増やした手作業も、すべてはお客様の「ああ、美味しい」のひと言のためにある。
「実は、社員による酒造りに移行した背景には大きな失敗がありました。1999年に新規事業の地ビールレストランで2億円もの赤字を計上してしまったのです。その際、経営破綻するのではと危機感を抱いた杜氏が酒蔵から去っていきました。すぐに新しい杜氏を探すのが難しく、自分たちだけでゼロから酒造りを始めなくてはならなくなりました」
やはり、大きなピンチがかつてないチャンスへの入り口となったのだ。
あのジョエル・ロブションが
一献傾けて押し黙った
「獺祭」の酒質向上は当然の帰結となり、香りと味わいの正常進化は続いた。近年の「獺祭」人気の高まりとともに、より複雑なもの・より洗練されたものへと日本人の酒に対する嗜好は変わっていった。次なる課題は、世界のマーケットに売り込むことだ。
2013年、和食がユネスコの無形文化遺産に登録された。同年、旭酒造はフランスに現地法人「ダッサイフランス」を設立している。18年にはフランス料理会の巨匠、ジョエル・ロブションと共同で複合レストラン「ダッサイ・ジョエル・ロブション」をパリにオープンした。この店舗の構想は、ジョエル・ロブション本人からのオファーでスタートしたという。
「ロブションさんとはモナコではじめてお会いしました。獺祭を口にしたとき、彼は押し黙っていましたね。後日、当時のことをあらためて聞いてみたら、獺祭と合わせる料理が次々と頭のなかに浮かんでいたと話してくれました。彼は、精緻な機械式時計が好きとのことです。来日した際に獺祭の酒蔵を案内したら、“まるで時計を造っているかのように計算し尽くされた工程だ”と感激していましたね」
華やかな上立ち香と濃密な含み香、芳醇な味、全体を引き締める程よい酸。これらが渾然一体となり、バランスのよさを感じさせながら喉に滑り下りていった後は、爽やかな後口の切れを見せつつ、余韻が長く続いていく。桜井が突き詰めてきた「獺祭」という酒は、世界のテーブルで勝負できる。
夜中に我慢できずに寝床から飛び出して、
思うとおりにならない酒を見つめる。
これを幾度も繰り返してきました。
苦悩があるからこそ、喜びがあるのです。
現在は、アメリカのニューヨーク州で酒蔵を建設中だ。22年秋にも稼働するという。
「アメリカで造る酒は、“Dassai Blue”というネーミングにしたいと思っています。元になったものより、そこから出たもののほうが優れているという意味の“出藍の誉れ”から考えついた名前です。現地の環境と原料を活用しながら、本社蔵の獺祭を凌駕する酒を造ってみせます。立ち上げ時には私が現地に出向いて、現場の指揮をとります。なにせ、新しいことをスタートする際の修羅場には私がいちばん慣れていますからね(笑)」
どこまでも現場主義のアントレプレナーだ。現在は、ジョエル・ロブションも訪れた12階建て本社蔵の最上階を住まいにしているという。今日の深夜も胸を躍らせながら階下の麹室に入り、麹の進行状況をチェックしているのだろうか。
「とにかく日本酒が好きなんですよ。自分たちの力不足から起こる仕上がりの出来不出来は別にして、旭酒造はこんな酒を届けたいと純粋に思える酒をお客様に売るという贅沢をさせていただいています。この贅沢がやめられないので、私は社業から引退する気はありません。私にとっては、酒造りこそが人生なのです。生涯の最期は、酒蔵で迎えたいと思っています」
そう言った彼は、華やかな笑顔を見せていた。間違いなく、桜井博志はアントレプレナー界の「純米大吟醸」である。最後に「世界で闘うアントレプレナーとしての心構え」は何かと聞いたら、ひと言「あきらめないことだ」と即答した。
21年9月期の売上高は、50%以上が海外輸出で占められた。いま、世界が「獺祭」を求めている。
山口県岩国市の山間部。清流のほとりに建つ本社蔵の向こう岸では、隈研吾が設計した獺祭ストアが豊かな自然の景色と調和していた。
1950年生まれ、山口県周東町(現岩国市)出身。大学卒業後、西宮酒造(現日本盛)での修行を経て、1976年に旭酒造へ入社。1979年には石材卸業の櫻井商事を設立。父の急逝を受けて84年に家業に戻り、純米大吟醸「獺祭」を軸に経営再建を図る。社員による四季醸造をはじめ次々と業界の常識を破り成長を遂げている。2016年より現職に就く。本当に大切なもののためには伝統に固執せず、変化を恐れないのがモットー。
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Text by Kiyoto Kuniryo|
Photographs by Shuji Goto|
Edit by Akio Takashiro