初回は、佐賀県鳥栖市に本社を置く川口スチール工業の川口信弘社長をゲストに迎える。屋根の設計施工を主業とする下請け稼業から脱却し、独自のフィルム型ソーラー事業でアフリカなど途上国に明かりを灯している。
2019年からは一般社団法人GOOD ON ROOFSを設立し、国内の企業のオフィスや工場などの産業用屋根に太陽光パネルを設置し、再生可能エネルギーを販売して利益の一部で途上国に太陽光パネルの設置支援を行う。ことし3月にベナン共和国で新会社を立ち上げ、川口社長肝入りでアフリカ進出に注力する。
川口社長は16歳で高校を中退し、屋根職人に弟子入りをしている。そしてアフリカを第二の人生の拠点にするまで、どんな半生を歩んできたのだろうか。社長の人生グラフを見ていこう。
波乱万丈人生、3つの転機
川口信弘社長の人生グラフ(直筆)
1. 16歳(1981年):校内暴力が社会問題化。高校1年生で中退し、屋根職人に弟子入り
2. 23歳(1988年):父の病気が悪化。事実上の開店休業状態だった「屋根屋」の家業を継ぐ
3. 41歳(2006年):建設業、冬の時代。下請けによるストレスと経営危機から心機一転
小学6年生、修学旅行時の写真。明るく、運動がよくできて、運動会ではスーパースターだった。
──1981年、高校1年生で中退していますが、校内暴力が横行していた社会背景の渦中だったそうですね。
高度経済成長真っ只中なのに、1966年は60年に1度の「丙午」で、その年に生まれた子どもは不幸になるという迷信があり、出生数がぐっと下がった年でね。その前後に生まれた人は売り手市場で、大学も就職先も自分が求めたところにほぼ入れると言われ、わがままで自由なライフスタイルで、社会に反発するのがかっこいいという世代やった。その風潮に相当影響を受けて、学校が面白くなくなって辞めたかった。
でも、学校の成績が良く、スポーツ万能がゆえに学校側から中退を阻止された。どうしたら学校を辞められるかという事ばかり考えていた。
中学2年の頃には、親父が病気で倒れて、家業の「屋根屋」は開店休業状態になっていた。そこで「家業を継ぐ」という口実を思いつき、学校側と話をつけて中退できることに。正直全く真剣に考えてはいなかったけど、約束した以上は屋根職人に弟子入りした。16歳やった。でもその後、定時制高校に入ったことで生き方を改めたね。
──屋根職人への弟子入り時代、定時制高校ではどんなことがあったんですか。
いわゆる夜学で、なかにはペンキ屋で爪や髪の毛までペンキ塗れのおじさんやヤクザみたいな人もおって、そんな人ほど真面目に来たっちゃ。あれは衝撃やった。僕は恵まれとることに気づいて、彼らと接するうちに自分の心が磨かれていった。
見た目はリーゼントで不良そのものでも、芯はブレちゃいかんな。人を傷つけるようなことはしてはいかん、と。
あの頃、俳優さんにも憧れとったね。屋根職人に弟子入りしたけど、建設業界の中でスターになるためにはどうしたらいいんや?と漠然と考えとった。まだ10代だったから絵に描いた餅やけど。計画も何もないけど、直感的に「独立してリーダーとして采配を振りたい」という思いが強かったね。