テクノロジー

2021.06.09 18:00

スマホじゃない コンピューターの5Gとは?


通産省が産業を育成


日本では戦後にアメリカの動きをいち早くつかんで、大学や電器メーカーがコンピューターを作り始めていたが、情報産業の重要性に気付いた通産省は60年代からさまざまな支援策を打ち出し、IBMの圧倒的な影響力に対抗して国産コンピューターメーカーの育成を図ってきた。

発展途上のコンピューターは、まず本体がないと話にならないので、もっぱら計算速度を向上させるためのハード開発が優先され、ソフトはおまけ扱いで開発は二の次になっていた。しかし1964年の第3世代の象徴ともなったIBMのシステム360からは、ハードを交換してもソフトがそのまま継続できるようなOSや業務用ソフトの互換性の重要性が理解されるようになってきた。


パークスビジネススクールの学生とスタッフが、同校のコンピュータプログラミングコースで使用する新しいIBM 360コンピュータを操作している(1966年)(Photo By Dave Mathias/The Denver Post via Getty Images)

1971年にはインテルがマイクロプロセッサーを発売し、メモリー素子などの半導体開発開発が激化し、その性能はムーアの法則で、約2年で性能が倍化していき、ハードの性能は順調に向上していった。そこで性能の評価の注目点が次第にソフトに移ってゆき、それに対して著作権や特許権を認めて保護しようとする動きが出てきた。

もともとタダ同然の扱いで仕様も公開されていた初期のOSなどのソフトは、まだ数の少なかった開発者の間では自由にシェアする文化があった。そして業界の巨人IBMは、常に司法省に独禁法違反で睨まれており、ハードとソフトの抱き合わせ販売を問題視されたので、ソフトを分離して仕様も公開するようになった。

こうした流れもあって、IBMのシステム360の開発中心者だったジーン・アムダ―ルがスピンオフして1970年に興したアムダ―ル社では、IBMから情報をもらって同じソフトが走る互換性のあるコンピューター(プラグコンパチブル機)を作って売り出し、同じような互換機メーカーがいくつも存在していた。

通産省は70年代にはコンピューター貿易の自由化を行うのと同時に、さらに国産メーカーの市場競争力を高めようと、国内メーカーのグループ化を行い、業界トップの富士通と日立がIBM方式のコンピューターを開発する路線が確定した。両社はアムダ―ル社と同じような互換機を作るためにIBMの情報を入手していたが、日本製のマシンの性能はコストパフォーマンスが良く、ついには1980年に富士通が国内でIBMを抜いてシェアのトップに躍り出るまでになっていた。
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文=服部 桂

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