「当時はソ連からの渡米自体、極めて特別なことでした。そんななか、数学オリンピックで優勝した子どもたちが米国に派遣されると聞き、知り合いに頼み込んで、その引率役にしてもらったのです」
こうしてミルナーは子どもたちを連れ、受け入れ先であるメリーランド大学へと向かう。ここでも運命の巡り合わせがあった。出迎えてくれたのは同大学で数学を教えるミハイル・ブリン教授。彼が子どもたちの世話を引き受けてくれたおかげで、ミルナーは、ウォートン校の面接を受けにフィラデルフィアに赴くことができたのだ(その恩人がグーグル創業者セルゲイ・ブリンの父だと知ったのは、それから20年後、セルゲイと知り合ってからだという)。
ただ、試験の勝算はまるでなかった。ミルナーはGMATもTOEFLも受けておらず、2年分の学費ももち合わせていなかったのだ。
「それでも私には切り札がありました。その年、ハーバード大学が史上初めてソ連からの学生を3人、ビジネススクールに受け入れたのです。ハーバードとウォートンはビジネス教育で首位争いを続けている。そこで私は面接官に言いました。『ライバル校が3人もソ連の学生を受け入れるのであれば、貴校も少なくとも1人は受け入れる必要があるのではないですか? 私以外に該当者はいませんよ』」
結果は合格ばかりか学費免除となり、月1000ドルの奨学金をくれる企業まで現れた。
しかし、卒業証書を受け取ることはできなかった。単位があと2点足りなかったのだ。
「ウォートンは役に立ちましたが、絶対必要というほどのものでもないですね。もちろん、得るものはありました。鉄のカーテンの向こう側から来た人間にとっては、あらゆる専門用語が別の惑星の言語のようでしたから。なにしろ株式や債券が何かも知らず、英語で何と言うのかもわからない。当初は講義をまったく理解できませんでした。私のような異邦人には、いい経験になりましたよ」
その後ミルナーは、ワシントンの世界銀行に勤務。ロシアへ帰国すると、新しい知識を生かして何か大きなものをつくり出そうとチャンスを探る。
そして99年、ついに“金脈”を見つける。インターネットだ。当時のロシアでネットユーザーはごくわずかだったが、アマゾンやヤフー、イーベイの成功に触発されたミルナーは、ロシア最大のインターネット企業グループ設立を目指し、IT投資家としての第一歩を踏み出す。
──ロシアのネット企業を手始めに有力企業への投資を始めたミルナーは、草創期のフェイスブックに目をつけ、2億ドルの巨額投資に踏み切る。その後の10年で、ツイッター、エアビーアンドビー、スポティファイ、中国のアリババやJD.comなどに投資。このうち5社が時価総額1000億ドル企業に大バケした。ミルナー流の「成功者の見抜き方」は、こちらの記事で明らかに。