11人に1人が乳がんになる時代。「絶対無理」と言われていたピンクリボン運動が広がるまで

北風祐子さん(左)と中西知子さん(右)


──乳がんの啓発活動がそれまで進んでこなかったのはなぜでしょうか。

中西:それまでは、乳がんそのものがタブー視されていて、「隠す病気」だと思われていたからです。そのような病気の啓発活動なんて「絶対無理」だと、最初の頃はよく言われたものです。でも私は、「絶対必要」だと思いました。女性である自分にとって、決して人ごとではありませんでしたから。

北風:勇敢ですね。乳がんを「デリケートな問題」と敬遠する人も多いなか、仲間を増やしていく活動はかなり大変だったのではないでしょうか。

中西:正直、最初の頃は、「絶対無理」と理解されず、社内にはあまり仲間がいませんでした。 仲間を増やしていけたのは、賛同者でしっかりとミッションを創った上でキャンペーン展開したからだと思います。女性の幸せのための啓発活動だという理解が広がり、仲間はどんどん増えていきました。一番最初に、一社ではなく異業種間で連携して解決に向かったのが良かったのだと思います。

そもそも、社会課題を一社で解決するなんて不可能です。異なる情報や視点を持つ複数の企業が集まると「うねり」が生まれ、原動力になりました。関係者が増えてくると様々な意見や要望が飛んでもきます。それでもブレずに活動を続けてこられたのは、一人ではなく同志でつくった拠り所=ミッションがあったからに他なりません。迷ったり、判断したりする際は、ミッションに立ち返りました。

──北風さんはご自身の病気が見つかったとき、ピンクリボンキャンペーンはご存知でしたか?

北風:もちろん知っていました。ただ、私が乳がん検診を毎年受けていたのは、実際に乳がんになってしまった友人から、「毎年必ず検診を受けるんだよ」と強く言われていたからなんです。

そのおかげで、私のがんは早期に発見できましたが、もしあと一年発見が遅れていたらかなり進んでいました。啓発活動は私のように身近な乳がん経験者がいない人にも検査のきっかけを与えられるので、その重要性は非常に高いと思います。


北風祐子さん

中西:ピンクリボンキャンペーンは今でこそ多くの方に認識していただけるようになりましたが、いくつか失敗も経験してきました。特に痛感したのは、当事者でない人が発信する難しさです。過去には無難だと思ってやった発信が、乳がん経験者の怒りを買ってしまったこともありました。想像力不足だと反省しました。

当事者にしかわからない気持ちは、確かにあります。そこに啓発活動の難しさがある。しかし、反発を恐れて何もしないままでは社会は変わりません。乳がん経験者に限らず、さまざまな人が抱える生きづらさを一つでも取り除いていけるよう、これからも私にできることをやっていくつもりです。


北風祐子◎電通第4CRプランニング局長。1992年東京大学文学部社会心理学科卒業、電通入社。2008年電通初のラボであるママラボを創設。戦略プランナーとして各種企画の立案と実施に携わる。2020年5月から現職。フラットでオープンな、誰もが働きやすい世の中の実現を目指している。ピンクリボンアドバイザー中級。Forbes JAPAN Webにて自身の乳がん闘病体験を綴った〈乳がんという「転機」〉を連載。著書:『インターネットするママしないママ』(2001年ソフトバンクパブリッシング)、『Lohas/book』(企画制作、2005年木楽舎)

中西知子◎朝日新聞社メディアラボプロデューサー。神戸大学卒。1992年毎日新聞社大阪本社入社。選抜高校野球、高校駅伝、びわ湖毎日マラソン大会などスポーツイベント運営に携わる。97年朝日新聞社入社。2002年ピンクリボンプロジェクトを立ち上げる。09年ダイバーシティープロジェクト、16年がんとの共生社会を目指すネクストリボンプロジェクトを立ち上げ、プロデュース。13年、社内新規事業コンテストでクラウドファンディング(CF)事業を提案し、15年にCFサイト「A-port」をローンチ。現在は、ビジョン会議サポート事業社会課題解決型キャンペーン支援事業を手がける。

文=一本麻衣 写真=小田駿一

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