コロナ禍は私たちに、働き方や組織のあり方を見直す必要性を生み出した。文化人類学者の松村圭一郎は、「マニュアルが通用しない時代こそ、現場から生じた小さな問いに目を向けることが大切だ」と説く。
──コロナ禍で、社会や職場における他者との関係性や労働観が見直されていると感じます。
医療従事者が過酷な労働環境に置かれながらもボーナスがカットされている現実は、報酬や対価そのものをとらえ直す機会になるのではないか。なぜなら、いまこの瞬間に起きていることは、「市場の論理に任せれば、社会の役に立つ仕事には適切な報酬が支払われる」という常識が通用しないことを示しているからだ。
ケアワーカーが低賃金になっている現状には、「生産に対する対価」という労働観が関係している。ケアは生産ではないため対価が計算しにくい。人類学者のデヴィッド・グレーバーは著書『ブルシット・ジョブ―クソどうでもいい仕事の理論』で、モノやサービスを生み出すことこそ労働だという考え方はあくまで労働観の一つにすぎないと指摘し、その労働観が自分の仕事が役に立っているとは思えない「ブルシット・ジョブ」が増えた背景にあると述べている。
人々がブルシット・ジョブに苦しむのは、生産中心の労働観によって「果たして自分は何かを生み出せているのか」という葛藤を抱えるからだ。この労働観は、コロナ禍でケアワーカーの人たちが置かれている状況とも関係している。
グレーバーは、仕事で重要なのはケアやメンテナンスのほうだと指摘する。周りの人と雑談し、困っている人を手伝う。人間関係や場所をケアしメンテナンスすることは重要な労働の一つだ。しかし、ケアの仕事は評価されない。誰もそれを「仕事」と定義づけないからだ。
先進国の企業や行政はこれまで、「これは仕事だ」「仕事ではない」と単純に切り分け、可視化できる仕事だけを労働とみなしてケアの領域を切り捨ててきた。さらに、「効率化」の名の下に多くの評価や査定を取り入れることで、実はかえって膨大な量の無意味な仕事が生まれている。
──人類学は、常識を見直すような問いの立て方に面白さや学びがあります。コロナ禍はまさに、私たちの仕事観を根本から問い直す好機ですね。
人類学は「問題」への直接的な答えを導く学問ではない。むしろ私たちが問題だと感じる前提にある常識や価値観を問い直すことこそ人類学にとって重要であり、得意とする部分だ。
仕事や働き方については、世の中の前提が変わり、選択肢が増えたことで今後も引き続き見直しや試みが続くだろう。とはいえ、何でもドラスティックに変えればいいわけではない。物事を一気にがらりと変えると、私たちが気づいていない大切な「何か」も捨て去ってしまう可能性がある。状況の変化を注視し丁寧に対応する姿勢が求められる。