プロ22年目を迎えた松井にとって、ベトナムは日本を含めて6カ国目、サイゴンは延べ13番目の所属クラブになる。初めて海を渡ったのは2004年9月。鹿児島実業高から2000年に加入した京都パープルサンガで、「10番」を託されて4シーズン目を迎えていた年だった。「期限付き移籍」で加入したフランス2部のル・マンを1部昇格に導く活躍を演じた当時23歳の松井は、ファン・サポーターから「ル・マンの太陽」として愛され、2004-05シーズン終了後に完全移籍。トータルで4シーズンプレーした後に、古豪サンテティエンヌへステップアップした。
しかし、10度の1部リーグ優勝を誇るサンテティエンヌでは、序盤から思うようにピッチに立てなかった。1年後に迫る南アフリカワールドカップを見すえ、出場時間を増やすことが必要だと判断した松井は2009年6月、1部に昇格して2シーズン目を迎えるグルノーブル・フットへ移籍したが、果たして、グルノーブルは最下位で2部へ降格する。
南アフリカワールドカップで右サイドハーフとして存在感を放ち、日本のベスト16進出へ貢献しながらも、その後の新天地が決まらなかった松井は、移籍市場が閉まる直前の2010年8月末に、シベリア西部に本拠地を置くロシア1部のトム・トムスクへ期限付き移籍した。
もっとも春・秋制でのロシアでのプレーは2010年いっぱいで終わる。海外でのプレーを優先させた松井は年明けにグルノーブルへ復帰するも、チームは2部でも最下位に沈み、さらに経営難によりプロ選手との契約を結べなくなる制裁処分まで科されてしまった。
フリートランスファーでの移籍が可能になった松井は2011年7月に、初めてフランス1部へ昇格したディジョンへ加入。しかし、左足首のけがと首脳陣との確執で、ほとんど出場機会を得られない状況が続き、新天地を再びフランス以外へ求める決断を下す。
2012年9月にブルガリア1部のスラビア・ソフィアへ、2013年7月にはポーランド1部のレヒア・グダニスクへ移籍。さらに半年後の2014年1月には、J2へ降格したジュビロ磐田から届いたラブコールに応えた。転々と移籍を繰り返すことになったサッカー人生を、松井はこう振り返ったことがある。
「とりあえず僕の独断と偏見で、毎回決める形になっていました」
しかし、2年間をかけてJ1へ復帰させた磐田での日々も、4年目の2017年8月に終焉を迎える。当時の名波浩監督やフロントから「磐田で引退を」と引き留められながら、ポーランド2部のオドラ・オポーレへ移籍したのだ。「安定があると外に出たくなるというか。厳しい環境に身を置きたかった」と明かした松井は、さらに磐田を通じてこんな言葉も残している。
「この年齢(36歳)での海外移籍は無謀と言われるかもしれませんが、挑戦すること、そして挫折することは自分の財産になると思っています。自分の道は(自分以外に)誰も歩めない。前進あるのみです」