伊藤詩織、映像ジャーナリストとして生きる。現実から見出す、小さなともし火

映像ジャーナリスト 伊藤詩織さん

映像ジャーナリスト、伊藤詩織さん。2020年9月、米タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に、テニスの大坂なおみ選手とともに選ばれた。皆さんは彼女の名前を聞いて、どんな姿を思い浮かべるだろうか。

記者会見で性暴力被害を告発する姿、民事訴訟で勝訴して泣きながら思いを吐露する姿、ツイッター上の誹謗中傷への訴訟で切に訴える姿──。いずれも、現状を自ら変えようと、使命感を持って行動を起こす「アクティビスト」のイメージがあるのではないだろうか。

しかし、映像ジャーナリストとしての彼女の素顔は、少し印象が異なる。自身は黒子に徹し、取材対象者に寄り添い、微かな温かみを感じられるような表現のドキュメンタリー作品を発表している。

そもそも、なぜ彼女はジャーナリストの道を志したのだろうか。

10代で日本を飛び出して、単身アメリカへ渡り、それから世界を巡りながら自らの夢を追いかけてきた。そして、コロナ禍のために、現在の拠点は日本に置く。10年ぶりに生活拠点を母国としても、詩織さんはドキュメンタリー制作を続けている。彼女はいま、どのような世界を追いかけているのだろう。過去を辿り、最新の姿を伝えたい。


最初のアメリカ留学、衝撃体験。そして、刺激的な遠回り


「いつかサバンナに行って、現地からレポートをしたい」詩織さんは子どものころ、「ライオンキング」の世界観に憧れ、こんな夢を描いていた。

年の離れた妹と弟がいる彼女は、4歳のころまで郊外の団地で育ち、自立心の強い子どもだった。

中学3年のころ、「寮生活のできるイギリスの高校に行きたい」と志望したが、資金が足りず、友人から教えてもらい、ボランティアで留学生を受け入れてくれるアメリカの一般家庭を見つけた。

留学先の希望調査には、冒頭のような夢から、「動物と自然が好き」と書き込むと、受け入れ先はアメリカ本土の中央部に位置するカンザス州に割り振られた。

コロラド州やオクラホマ州などに隣接し、大規模農業や牧畜業が盛んな地域だ。最初の受け入れ先の家庭は、トレーラーハウスだった。次に移った2軒目の家庭では、300頭もの牛を飼育していた。

高校のクラスメイトたちは、カンザス州から出たことなどなく、州外の世界に関心のない生徒が多く、アメリカの中にも閉鎖的な地域があることに衝撃を受けた。周囲からは、まず「日本って中国の中にあるんでしょ?」と言われたり、歴史教育の中では「日本人としてどう思う?」と意見を求められたりもした。

そんな初めての世界に飛び込んだ詩織さんは、自分自身を「エイリアンのような存在だった」と感じていたという。

「外部の情報がないということで、恐怖を感じることがあった。最初の留学で、情報がどれだけ人生に関わるのかということを、身をもって知りました」

そんな情報が遮断されたなかで頼りにしたのが、外の世界と繋がるニュース番組だったという。

学生時代からすぐにジャーナリズムの世界に飛び込むため、ニューヨークの大学へと進学したかったが、再び金銭的な事情で頓挫。まずは日本のある県立短期大学へ進学することにした。

その後、学費を抑えつつ単位を取得するためにドイツやスペインの大学を転々として学び、2012年、ついにニューヨークの大学に転入学し、写真を専攻する。

しかし、物価の高いニューヨークでの生活は続かず、翌年にイタリアへ留学。再びニューヨークに戻ったのは2014年の夏だった。「遠回りの人生」だが、彼女はこう笑う。

「刺激的な遠回りでしたよ。そして、ジャーナリズムを学びたいのではなく、私は早くこの仕事をしたかったんです。それを叶えるため、自分の足で世界中いろんなところに行って、いろんな人と話してきた。おかげで成長できました」

その間には、日本テレビのニューヨーク支局でインターンシップをしたりして、忙しく過ごした。悩む暇などなかったという。ただ、夢の実現に向けて、前へと進むのみだった。
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文=督あかり 写真=Christian Tartarello

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