政治においては、偏狭な自国優先主義や覇権主義、科学においては、高度に専門化された分業体制下での視野狭窄が跋扈(ばっこ)し、新興国、先進国問わず、社会的に脆弱な人々の命と暮らしと尊厳が危機に晒されている。
他方で、米国および欧州など経済的に豊かな国々が、ことごとくコロナ禍に苛まれる状況にあって、困難に直面した国々における膨大な資金需要を国際社会が満たすことは、不可能である。希望はないのか。
しかし、そのような状況にあっても、世界中の国々の対応をつぶさに見ていくと、希望がないわけではない。各国の実践からの学びによって、より良き世界の構築、より強靭な保健システムの構築への道筋が見えてくる。
「知の力」は、夢物語か?
コロナ禍対策の初期の段階において、当初、予想しなかった状況が生まれた。あくまでも相対的にみて、ではあるが、少なくとも初期対応に関する限り、経済的に貧しい国々の方が、経済的に豊かでより優れた医療技術や施設を持つとされていた国々よりも、総じて対策に成功していたのである。
たとえば、ベトナムは、(台湾を除く)豊かな国々のすべてを上回るパフォーマンスを示した。ブータンの政治指導者は、国民の自発的な力を引き出し、被害を最小限にとどめることに成功した。ガーナ大学の野口記念医学研究所や、ケニアの国立医学研究所は、日本のどの検査機関よりも多くのPCR検査を行った。
多くの豊かな国々で、デジタル環境の差別拡大が進む中で、アフガニスタンの教育関係者は、コロナ禍を契機に、ラジオやテレビの力を再認識し、農村や遠隔地での初等教育の拡充に意欲を燃やしている。
なぜ、経済的に貧しい国々の中で、豊かな国々のパフォーマンスを上回る国がでてきたのか。その答えは、コロナ禍が収束した後の実証研究を待たざるを得ない。しかし、その理由の中に、必ず含まれてくるものがひとつあると私は考える。
それは、彼らが、他国の教訓から真摯に学んだからである。そして、その学びを最大限に生かしながら、貧しさの中、無い無い尽くしの中で工夫を凝らして対処することを厭わなかったからである。
「知の力」そして、それを実践する力が、「お金の力」より重要であることが示されたのである。いま、経済的に貧しい国々の多くは、さらに困難な状況に直面している。しかし、このような「知の力」を正当に評価することの意義は、依然として大きい。