正義を貫こうとすれば、誰かに禍をもたらしてしまう。愛を貫くためには、誰かを裏切らなければならない。真実を公表しようとして、時代の嵐のなかで翻弄される夫婦のドラマを、緊張感あふれるサスペンスとともに描き、最後までスクリーンから目を離す暇を与えない。当時の日本の事情に詳しくなくとも、ベネチアの審査員を動かしたことは想像に難くない。
(c)2020 NHK, NEP, Incline, C&I
「スパイの妻」が、ベネチアで銀獅子賞を受賞した陰には、黒沢監督に東京芸術大学大学院で師事した2人の教え子の存在もあった。今回、黒沢監督とともに脚本を担当した濱口竜介と野原位だ。
濱口は、昨年の第71回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品された「寝ても覚めても」(2018年)で、初めての商業作品を送り出し、いま期待されている若手監督の1人だ。
黒沢「教授」の指導の下、東京芸術大学大学院の修了制作として監督した「PASSION」(2008年)が高い評価を得て、その後5時間17分の長編「ハッピーアワー」(2015年)で、世界各国の映画祭で主要賞に輝いている。
野原も東京芸術大学大学大学院の映像研究科の出身。在学中は濱口の監督作品の助監督を務め、自らも監督作品を発表。その後、映像のワークショップなども開催するなど活動の範囲を広げる。濱口の「ハッピーアワー」にも脚本で参加、「スパイの妻」では当初プロデューサーに近い役割を担っていた。
実は、「スパイの妻」は、不思議な成り立ちをしている。企画が立ち上がったときにあったのは、地元出身の黒沢監督に「神戸」を舞台とした作品をつくってほしいということだけだったという。つまり、テーマも物語も時代設定も白紙の状態からスタートしたのだ。
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濱口の「ハッピーアワー」も神戸を舞台にしていたが、同じプロデューサーが「スパイの妻」も手がけており、そこで、濱口と野原に企画開発の声がかかった。1年後、2人から2種類のプロットが届けられた。その1つが「太平洋戦争前夜の神戸を舞台に描くラブ・サスペンス」である「スパイの妻」だったという。こうして、東京芸術大学大学院映像研究科の強力な師弟タッグが生まれた。
濱口と野原に、「教授」の黒沢が加わり、脚本は練りに練られ、強化されていった。今回、ベネチア国際映画祭で銀獅子賞に輝いたのも、もちろん黒沢監督の卓抜な演出もあるだろうが、緻密に細部まで紡がれた物語に因るところも多い。銀獅子賞はまさにこの師弟タッグがもたらしたと言ってもよいかもしれない。
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ちなみに、今回のベネチア国際映画祭コンペティション部門の最高賞である金獅子賞(前回はトッド・フィリップス監督の「ジョーカー」が受賞)に輝いたのは、「スリービルボード」(2017年)でアカデミー主演女優賞を受賞したフランシス・マクドーマンドが主演した「ノマドランド」という作品だ。
「ノマドランド」は、リーマンショックで家を失い、キャンピングカーで広大なアメリカを漂流していく現代のノマドの姿を描いた作品で、監督のクロエ・ジャオは中国の北京出身。「パラサイト 半地下の家族」で、今年のアカデミー賞の監督賞と作品賞に輝いた韓国出身のポン・ジュノ監督に、「スパイの妻」で銀獅子賞を受賞した黒沢清監督と、世界の映画界にはいまアジアからの風が吹いている。
「スパイの妻」は、10月16日(金)より新宿ピカデリーほか全国ロードショー
連載:シネマ未来鏡
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