今回はその中でも、山に棲む恐ろしい人々、について考えてみます。
遠野物語には、「山の神」、「山男」、「山女」、「山の霊異」と題する話が23話あります。これら以外にも、天狗や山奥・渓谷に潜む怪異についての伝承が相当数ありますから、全体の3割程度が「山人」に絡んでいます。
興味深い点は、伝えられる彼らの姿です。「顔の色がきわめて白く身の丈高い美女」、「丈きわめて高く眼の色少し凄い男」、「丈高く顔非常に赤き男」「赤き顔の男女」、「丈高く面朱のようなる人」などでして、要は村人と違って、身長が高く、肌の色は白いが赤ら顔の人間だ、という描写です。
日本人、いやアジア人とは明らかに異なりますね。物語に出てくる山人たちは白人の特徴を備えているのではないでしょうか。碧眼紅毛ならぬ碧眼紅顔。日本人より一回り大きく、肌白く赤ら顔といえば、明治以前の日本人には、イコール白人だったと思うのです。
先住のアイヌの方々については、「蝦夷屋敷」などで触れているので、この人たちとは別の存在のようです。遠い昔の日本の東北には、白人たちが生業を営んでいたのではないか、何らかの理由(前九年、後三年の戦とか、さらに前の争い)で、住む場所を追われ山に逼塞するしかなかった種族がいたのではないか……あくまで素人の想像に過ぎませんが。
問題は、こうした先住人と思しき人々への感覚や接し方にあると感じています。いやいや、柳田先生や佐々木さんがではなく、およそある地域を支配する人々に通底する、一種の「性(さが)」や「業」の深さがマズいなあと思うのです。
後からやってきた集団が良い土地を占領してしまい、平和に暮らしていた先住民は山奥に逃亡する。衣食住に窮し、里に下りて偸盗(ちゅうとう)をせざるを得ない。時には開発民の女性を誘拐して子供を身籠らせる。そんな彼らは、開発民とは人種が異なり巨躯で、体色、顔つきが違う。珍しいゆえに、怖く見える。
侵略者は自分たちが追いやったことは棚に上げて、夜陰に紛れて山から下りてくる先住民を、鬼か妖怪扱いして恐れるのです。時には荒ぶる神、山の神、時には化生のものなのです。綿々と受け継がれる伝承のなかで、次第に別人種たる先住民は人間として扱われなくなります。
これを差別と言わずして何と言うべきなのか。
でも、ですよ。遠野物語の語り部たちには「差別意識」などなかったと思います。むしろ、恐ろしくも日常の中の非日常として、自然に共生しているイメージです。つまり、この問題の難しさは認知していない恐ろしさ、「非認知の作為」になっている点にあるのではないでしょうか。冒頭で述べたように影の部分が牙を剥くのは、「常識が当てはらまなくなる時」です。
私たち日本人は、果たして差別という名の妖怪を調伏できているのでしょうか。そうでないとしたら、最近勢いを得ている移民の受け入れについては、もっとじっくり考えてみる必要があるのではないか。人口減少と労働力不足は移民で補えばよい、という数の論理ばかりでは、移民の方々も日本人も、いずれも不幸な結果を見るような気がしてなりません。世界が差別で荒れているいま、「非認知」について考えるときがきたのではないでしょうか。
連載:妖怪経済草双紙
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