大統領選挙の年に、なんというイメージ戦略だろうか。7月24日CBSが発表した大統領選の世論調査では、バイデン支持者51%より低いものの、トランプ支持者が41%も存在している。先日の都知事選で、ヘイトスピーチを繰り返す党の候補者が約18万票(全体の2.9%)を獲得したという東京の現状と、少なからず意識的な重なりを感じるのは私だけだろうか。
「白人至上主義」は過激派だけを指す言葉ではなくなった
トランプ大統領になってから、「隠れレイシストたちが、クローゼットから出てきた(Racists came out of the closet)」とワシントンDC周辺に住む友達が口をそろえて言う。
人種に対する意識は私がアメリカで暮らした23年間の中だけでもよい方向へ進んだと思っていたが、それは幻想だったのか。いや逆に、どんな思想が、言葉が、または行動が差別なのかということが、今になってもっと具体的に理解が進んだということかもしれない。それにより、今まで何の問題とも思っていなかった、または思われていなかった(と思っていた)自分の言動が否定されたと感じる人たちの感情が、表に出てきているということかもしれない。
それまでは、白人に限らず多くの人々が、問題を見て見ぬふりをすることによって差別はないと思い込んでいただけだろう。問題に正面からきちんと向き合い、可視化し言語化し、意識を変えていくことが、実は今になってやっと始まったのかもしれない。
ジョージ・フロイド氏の死から2カ月経ち、アメリカから発信されるさまざまなニュース記事を読む中で、変化を感じた言葉があった。「白人至上主義(White Supremacy)」という表現だ。
従来は「白人至上主義」という言葉は、Ku Klux Klan(KKK)などの過激団体を表す時に使われてきた。しかし最近の記事に出てくるこの言葉の使い方では(当然文脈によってニュアンスは変わるけれど)、過激とは程遠いアメリカの日常社会を表していることが多いのが興味深い。
それは、今まで見て見ぬふりをして仕方ないと思われてきた社会は、白人の意識を基準とする社会であり、だからこそ「白人特権(White Privilege)」が存在する「白人優位(White Supremacy)」 な社会でしかなかったという現実を、真っ向から言えるようになったということだろう。
連邦警察が去った後の週末、ポートランドに平和が戻ったとニュースが表現する「行間」には、トランプ大統領が送りつけた部隊が、平和ではなく混乱をもたらしたことが読み取れる。
「当たり前」だったことが変化する時、それに反対する声が必ず上がる。社会問題の本質を問えば問うほど、今までの「当たり前」が崩れていく。第二の故郷であるアメリカを外から眺めている私としては、変化し続けるアメリカ社会から目が離せない。
連載:社会的マイノリティの眼差し
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