政府は緊急事態宣言の延長を決定し、一方大阪府では感染拡大の収束の兆候が見え始めていたGW明け、大阪府スマートシティ戦略部長の坪田知巳は、吉村洋文知事に呼ばれて行った知事室で、用意していた一枚の紙を見せて言った。経済活動の再開に備えて、感染発生クラスターの追跡に役立つ仕組みを、ICT技術を使ってできないか、そう吉村から聞かれたのだ。
実は、坪田は刻々と変わる状況の対応に追われる知事のツイッターを見ていてそのことを予測し、4月にイベント業者用に考えていたシステムを、利用者側がQRコードを読み取るだけでよく、飲食店などの店舗でも使える簡易なものに内々に改造していた。「これ、絶対やろう」、吉村も即断で応じた。これが、大阪府が全国に先駆けて独自に開発・導入した「大阪コロナ追跡システム」だ。
段階的休業要請解除が始まる4日前、5月12日という行政では画期的といえるスピードで発表され、現在は東京、神奈川、京都、滋賀といった他の都府県も採用し、全国に広がっている。
遅れる日本の個人情報議論
しかし坪田は満足していない。日本で個人情報保護の議論がこれまで全く進んでこなかったことで「一番の安全策を取らざるを得なかった」と言うのだ。一党独裁の中国はもとより、過去にSARSに苦しめられた経験を持つ韓国、シンガポールや台湾といった民主主義の国も、より踏み込んでICT/データを活用し感染症の封じ込めに役立てている。個人情報を最大限に配慮したアップルとグーグルのAPIを利用した国の接触通知アプリ(7月3日通知開始)も、普及率と普及にかかる時間がネックとされている。
一方、大阪府の感染者追跡システムに特徴的なのは、自粛要請解除時に住民の安心感を高めるだけでなく、住民や事業者自らが保健所のクラスター対策を助けるという設計になっていることだ。
「保健所は陽性者に感染経路の聞き取り調査をしています。本来は陽性判明時点から最長20日前まで遡って感染源を調査することが望ましいのですが、実際は感染者が記録でも取っていない限り不可能です。その記録の代わりに住民に『メモを取るような気軽さ』で使ってもらうことで、クラスター対策を助けることができると考えました」と坪田は話す。
大阪府民と事業者もこれに応える。府によると7月6日現在で府内1万9881の店舗・イベントが登録、60万2736人が利用している。坪田の下で開発を担当した若手職員の1人、小泉彩乃は、現在の日本に受け入れられる仕様にするのにもっとも苦心したとしつつ、「リリース後に実感したのは、コロナ禍において社会で『安全』や『社会貢献』といった価値基準が存在感を高め、それが行政の取り組みを支えてくれているということです。肌感覚ですが、現在、事業所の皆さんがシステムを導入してくれるのは、その価値基準の変化を認識されているからのように思います」と言う。