「歩」という文字、「休」という文字
「豊かな人生には、上質の空白が必要である」と前述したが、僕は50歳のときに「人生のハーフタイム」と称して、1カ月の休暇を取って旅に出たことがある。
出発前、1カ月間の日々のあれこれを記そうと小さなノートブックを用意した。2014年6月23日にしたためた最初のページにはこう書いてある。
「五十にして天命を知る。その天命とは何だろう? 自分はなぜこの世の中に生まれてきたのだろう?(中略)これから残りの人生で何をすべきか? それを考えるために、1カ月間の休みを取ることにした。(中略)がんばって、休むぞ、オレ!!」
そんな休暇初日の7月1日、僕は仙台の歯医者にいた。しかも、1日~3日、9日~11日の計6日間、歯医者に通い続けた。「おいしいものを食べ続けるためには丈夫な歯でないと」と思ったからである(結論として大正解だった)。ほかは自分の行きたいところに行くことにし、4日~7日はパリとストックホルム、12日~14日は熊野古道、16日~25日はニューヨーク、イスタンブール、ヴェネツィア、ツェルマット、プラハを旅し、26日~8月2日は「シルバーシー」に乗船し、ストックホルム→ヴィズビィ→リーガ→ヘルシンキ→サンクトペテルブルグ→ミュンヘンという旅程を楽しんだ。
さて、休暇から戻って感じたことがいくつかある。まず、休むことに対する罪悪感が消えた。それまでは「休むこと=悪」と思っていたのだが、長い人生で1カ月くらい休んでもなんとかなるもので、休む勇気が湧いた。同時に休暇中にすでに「早く働きたい」とウズウズしていたので、そういう意味では働くことの喜びもあらためて知った。
また、スタッフも1カ月で成長していた。それまでは任せることが不安だったけれど、自分がいなくても回るんだという、スタッフへの信頼と感謝が芽生えた。
そういえば熊野古道を歩いていたとき、ふと思ったことがある。「歩」という文字は「少し止まる」と書き「、休」という文字は「人が木になる」と書くと。人は歩き始めたらずっと歩き続けなくてはいけないと思いがちだが、立ち止まるということも必要なのだ。
無駄なことをあえてする
「50にして1カ月の休暇を取った」と言うと、たいがい「自分もやりたい」と言われる。でも実際に行動に移した人に会ったことがない。僕がなぜ成功したかというと、やはり「50歳」という年齢があった。
例えば47歳で突然「俺、1カ月休むわ」と言ったら周りが許可しないだろうし、「60歳の還暦に」と思ったら今度は体力が足りない。50歳という年齢は周囲の理解と納得を得られやすく、すごくよいタイミングだと思う。
次に告白のタイミングだが、僕は49歳の誕生日にそれを宣言した。祝いの場で1年後の話をされても、みんなあまりピンとこないので、「どうぞどうぞ」と言ってくれる。もちろん日が近くなれば「本当に休むんですか!?」と騒ぎ出すのだが、「俺、きちんと宣言したよね」と言えばいい。
本連載には「妄想浪費」というタイトルをつけているが、大事なのはリターンを目論む投資ではなく、どれだけ無駄なことをやるかだと僕は思う。「無駄」の「駄」は馬に積んだ荷物のことで、荷をつけて運べば「駄賃」になるが、荷をつけない空馬は稼ぎがない。だが餌だけは食うから、それを「無駄飯」と言った。そういう意味では、無駄な空馬は仕事せずに歩いている人間みたいなものだけど、だからこそ見つかるものがあったり、普通ならできない経験ができたりするのではないだろうか。
「blank」をつくったのも然り。無駄といえば無駄。でも、その空間には仕事では絶対に生まれないようなセレンディピティが生まれるかもしれない。人生をちょっと豊かにする魔法が、そこにはきっとある。