また、秀吉は諸将に与えた城に、兵糧米を常備しておくよう命じている。これを「城米」と言った。天正13年(1585)9月1日付け一柳市介(直末)宛て書状では、一柳の城である大垣城は「城米大豆合(あわせて)五千俵」(『秀吉』一六二〇)としている(一俵は約60kg)。大豆は、後に述べるように馬の飼料である。
これは籠城の時の備えでもあるが、秀吉が軍勢を動員する時、味方の城に城米が常備されていればそれを使うことができる。運ぶ米の量も少なくてすみ、機動的な軍事行動が可能になるのである。
天正18年(1590)8月16日付け秀吉朱印状(「仁木家文書」)によれば、出羽・奥羽に一揆が起きた場合に備え、「近江・美濃・三河・遠江・駿河・武蔵・下野国まで、それぞれの国によい蔵を建て、出陣する軍勢に兵糧を支給するようにすれば、陣夫を召し連れずにすぐに軍勢を差し向けられ、一揆勢を成敗することができる」と言っている。
兵糧運搬の陣夫を連れていると、どうしても迅速な軍勢動員ができなくなることを秀吉自身が痛感していたのである。こうして秀吉の時代には、全国各地に秀吉の蔵入地(直轄地)が設定された。収穫された米の多くはその地に蓄えられ、兵糧米として活用されたのである。
金と米の換算
米の次に、金銀の価値についても触れておこう。
中世では、金は砂金の形を取り、紙に包み、袋に入れてやりとりした。信長は天正初年(1573)頃、大判金貨を鋳造し、砂金10両分を一枚としたとされる。天正4年(1576)、内大臣に任じられた信長は朝廷に「金二百枚」を献じている(『信長公記』)ので、この頃には信長が鋳造した金貨があったと推測される。
秀吉の時代、天正16年(1588)に大判・小判が製造された。いわゆる「天正大判」「天正小判」である。銀は重さで量って通用し、銭は中国銭である「永楽銭」が流通していた。当時、金は一枚、二枚と数えていて、これは「天正大判」の枚数だと考えられる。金一枚の目方は、44匁(165g)である。
現在の金相場では、金1gが6000円ほどなので、金一枚(44匁=165g)は99万円となる。これも一つの参考にはなるが、当時の物価で換算した方がより感覚的に整合するだろう。
そこで、金一枚と米との換算相場を調べてみよう。
天正12年(1584)正月22日、秀吉が河内代官所の年貢米を受け取った時の「請取金子之事」(『秀吉』九五二)によると、合計15枚を受け取っており、「この米390石、一枚に付きて26石替也」としている。
つまり、金一枚が米26石(約3.9トン)である。米一石の値段を前述のように8万円とすると、次のような額となる。
金一枚=米26石=80000円×26=2080000円
つまり、金一枚が200万円ほどである。