若者の間で薄れゆく沖縄戦の記憶 これからの慰霊について考えたこと

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コザの美容師や洋裁師の俯瞰的視点から


──それで、大学院へ進んで、米軍基地の町であるコザの戦後史を研究したのでしょうか?

就職という進路も考えたのですが、戦後、沖縄の人々、特に女性はどのように生きてきたのか、戦後史を、現代に生きる自分に連なるものとして深く理解したいという気持ちが強くなり、大学院への進学を決めました。

私が行っている研究は、かつて基地城下町として栄えたコザを対象に、当時の女性たちが取り入れた「アメリカ的文化」の諸相を明らかにすることを目指しています。

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かつて基地城下町として栄えたコザ(MORNING STAR(モーニングスター)より、那覇市歴史博物館提供)

私が生まれ育った沖縄本島中部地方は、他の地域と比べてもアメリカの影響を受けた文化が根付いていると言われています。そして、その起源は基地城下町として栄えた1960年代にあるのではないかと思い、研究をスタートさせました。

その文化の流れを追うなかで、当時のコザの女性社会では、いくつかの棲み分けがなされていたことがわかってきました。1つは将校婦人。アメリカ軍人に帯同して沖縄に来ているパートナーたちです。主に基地内で暮らしていました。2つ目はAサインバーホステスと呼ばれたアメリカ軍人向けに性的サービスを提供することもあった沖縄女性。そして3つ目が一般の沖縄女性です。

──当時のコザの女性社会を分析するなかで、どのようなことが見えてきたのでしょうか?

将校婦人、Aサインバーホステス、一般の沖縄女性。この3者は、生活のなかでは、きわめて接点が少なかった。そのため、それぞれの日常を客観的に理解することに苦労しました。そこで興味深かったのが職業柄、3者ともに接点があった美容師と洋裁師の視点でした。

例えば当時、一般の沖縄女性のAサインバーホステスに対する心情は差別的なものでした。ですが、美容師や洋裁師だった人たちから話を聞くと、「彼女たちも生活のために必死で働いていた」「彼女たちのおかげでさまざまな経済効果があった」と少しも偏見を感じさせない反応ばかり。美容師と洋裁師は、3者へ顧客として対等に接していたからこそ、当時のコザの女性社会に対してきわめて俯瞰的な視点を持つことになりました。

その当時の美容師や洋裁師だった方々からの聞き取りをもとに、女性社会においてどのようにアメリカ的な文化が浸透していったのかを理解することができました。

歴史は繋がっているということも肌感覚として理解できました。私が研究対象として分析したコザの女性社会、この構造が生まれる背景にはもちろん沖縄戦があり、これは現在の沖縄の女性社会の構造にも繋がっていることがわかりました。

コザのアパレル店員として働いていた祖母や、現代を生きる私も、当然ながらこの社会構造のなかに組み込まれ、利益を享受したり、影響を受けたりしている。現代の事象もすべて歴史の流れのなかにあることを実感しました。

しかし、祖母も含めて、インタビューをした方々が口をそろえておっしゃったのは、この時代は本当に楽しかった、ということでした。アメリカの軍人が連日お客さんとしてやってきて、レジがドル札であふれていたこと。稼いだお金で休みの日に踊り明かしたこと。本当に楽しそうに話されるのでこちらも明るい気持ちになったのです。

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(キーストンスタジオ蔵 那覇市歴史博物館提供)
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文=谷村一成

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