長野県坂城町出身。小松は世界を駆け巡っているいまでも、地元と東京の間を行き来して製作に励んでいる。豊かな自然環境で生まれ育ち、遊び場と言えば千曲川や近所の山の中だった。幼い頃から動物のスケッチを描くのが好き。虫なども含めて生き物の生死に触れる機会も多かったという。
長野には美術館やギャラリーも多く、家族もアート好きで、幼少期から日常的に美術館巡りもしていた。そして、いつしか「将来は、画家になる」と決めていた。高校3年生になると、美大受験をするためコンビニでアルバイトをしながら、長野美術研究所に通って本格的なデッサンを重ねた。そして、「両親に金銭面で迷惑をかけたくない」という思いから、「寮があり、学費も抑えられ、さらに学びたいことがあれば編入も可能」である女子美術大学短期大学部に進学した。
洋画専攻で入ったものの、そこで夢中になったのが、緻密に線を重ねていく銅版画だ。思えば、子供の頃から線描画が好きだった。いまの制作における集中力はこの時に身についたものだという。
「魂だけになった時、自分はどんな人間だったのだろうか」
美大生1年目、書道の先生だった祖父が亡くなった際に、小松は「体から抜け出て自由になった祖父の魂を見た」。この体験をきっかけに、「四十九日をかけて死後の世界へと進む旅をする。その間にどんな魂の試練があるのだろうか」と、「四十九日」を題材にした作品を手掛けた。すると、卒業後にプロのきっかけとなる評価を受けることになる。小松はその時から、「畏れ多くて描いてはいけない気がしていた」という見えない世界の存在である、神獣や守護獣を表現するようになったのだ。
小松美羽が学生時代に発表した銅版画「四十九日」(提供写真)
小松はいまも、人間の肉体には興味はない、と明言する。「肉体から外れて魂だけになった時に、どんな人間なのだろうか」と考えることで「魂が汚れないように、しっかり生きていかなくては」と、人のあるべき姿に気づかされるのだ。見えない世界に対して畏れを感じるからこそ、今の世をつなぐ役目を果たし、表現を通じて本当に大切なことを問いただしていく。
毎朝のお祈り、瞑想で集中
目には見えない世界の存在である、神獣や守護獣、ディバインスピリットなどを題材に作品づくりをする小松。没入型のライブペインティングのスタイルが生まれたのは、今から約7年前。28歳の頃、瞑想の勉強をし始めてからだ。小松は「座禅を組み『無』になるのではなく、一つひとつの物事に集中していくタイ仏教の方法で、瞑想をしています」と教えてくれた。
毎朝、お祈りと瞑想を欠かさず、インタビューした日も行なってきたという。「例えば、ライブペインティングがある日の朝には、その土地の氏神様や神聖な存在、ご縁のあるすべての人々との繋がりや、その土地に集まる純粋な祈りのエネルギーに対して感謝し、そこで得た多くの徳をお返しします」
まず胡座を組んで、宗教に関係なく神々の名前を挙げた上で、普段描いている神獣やスピリットに対して、意識を集中させる。そして両親や支えてくれる人たちの名前も述べた上で、最後に神聖な存在や縁ある人々への感謝を込めて、徳をお返しするように祈るのだという。特にライブペインティングの前には、瞑想を深めるために事前に107回でひとつのマントラを唱えて、ステージ上で最後に107回を唱えてから、描き始めているという。一般的には108回だが、小松が唱えるマントラは107回唱えるという方法だ。
インタビュー前日の公開制作の現場で。小松のライブペインティングは力強く、迷いがない。
筆者がライブペインティングで目にした小松の描き方は、一切迷いがないようだった。描く前にある程度、構図などを決めているのだろうか。まず、素朴な疑問から聞いてみた。
「いえ、構図は全く決めていません。テーマだけ決めて、その場で集中して描いています」。しかも、絵の具を投げつけたり、手で直接塗り込んだりするような描き方は、誰かに教えてもらった訳でもなく、自然と身につけてきたものだという。
「描く時は集中しているし、自分でもどういう行動をとったか分からないんですよ。スピードを出して、描くことだけに集中しています」と、首を傾げる。ただ、とめどなく流れるように描きながらも「自我を出さないように、集中すること自体を瞑想と捉えて、画面に向かっていきます」と明かした。