人類至上主義を確固たるものにした「虚構を信じる力」の正体とは。『サピエンス全史』の訳者 柴田裕之に聴く(対談第2回)

柴田裕之


武田:ここで出てくる“自由”は仏教用語ですよね。これは仏教学者の鈴木大拙が指摘しているのですが、元来自由という文字は東洋思想であり、西洋的考え方にはないのだが、フリーダム(freedom)やリバティ(liberty)に対する訳語が見つからないので、自由をあてはめてしまったのです。西洋的には“自ら由る”(みずからによる)ですが、仏教的には“自ずから由る”(おのずからよる)。仏教用語としての自由とは、個人の主観は一切入らないのです。

柴田:なるほど。西洋的な思想には、“自ら由る”が当てはまると感じます。これは『サピエンス全史』にも出てきます。

仏教の洞察に初めて接した西洋のニューエイジ運動は、それを自由主義の文脈に置き換え、その内容を一転させてしまった。ニューエイジの諸カルトは、しばしばこう主張する。「幸せかどうかは、外部の条件によって決まるのではない。心の中で何を感じるかによってのみ決まるのだ」(中略)これこそまさに、生物学者の主張だが、ブッダの教えとはほぼ正反対だと言える。(中略)ブッダの洞察のうち、より重要性が高く、はるかに深遠なのは、真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係であるというものだ。事実、自分の感情に重きを置くほど、私たちはそうした感情をいっそう強く渇愛するようになり、苦しみも増す。ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求をもやめることだった(サピエンス全史・下・P239)

武田:ニューエイジ運動で受け入れられたブッダ思想は、皮肉にもブッダが言っていることと180度違う解釈がされています。

柴田:近代的な考え方から、自分に目を向けろ、と言う思想はありました。これは『ホモ・デウス』で後に出てくる、自分や自由意志というものはあるのかという問いかけにもつながっていきます。

武田:全体を通じて、ひときわ仏教哲学だけがその枠に収まらないという気がしました。

柴田:ハラリさんは、仏教ではっきりと打ち出されている、生命に対してのやさしさや、すべてのものに対する慈しみの心などについて、強い共感を抱いていらっしゃると考えます。彼はヴィーガンであり、今の動物の扱い方についても批判的です。機械化された酪農、家畜業について、耐えられないと語っています。

「神」という虚構がもたらしたもの

敬意を受けてしかるべき、感覚のある生き物から、ただの資産へという動物の降格が、牛とニワトリで止まることはめったになかった。ほとんどの農耕社会は、さまざまな階級の人々を資産であるかのように扱い始めた。(中略)民族集団や宗教的コミュニティどうしが衝突したときには、しばしば双方が相手の人間性を剝奪した。「他者」を人間より下等の獣として描くことが、彼らをそのように扱うことに向けての第一歩だった。こうして農場は新しい社会の原型となった。そこには、うぬぼれた主人や、搾取するのがふさわしい劣等人種、絶滅させる機が熟した野生動物、こうした役柄の割り当て全体に祝福を与える、天上の偉大な神がみな揃っていた(ホモ・デウス・上・P122)

武田:農業が進化するためには、人間を支配・統治していくために、神という虚構が必要だった。それまで、動物と対等であった人類が、神と対話できるようになってから、動物を家畜にしていった。これが再び起こることをハラリさんは指摘しています。

柴田:そうです。わが身に返ってくるという……。

武田:人間が、人工知能にその座を明け渡す可能性があると。
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文=武田 隆

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