この人はいままでずっと車いすで生きてきたのだから、ちょっとやそっとのことで困っているんじゃないかと勝手に思い込んで、「May l help you?」と声をかけるのは見当違いであると、その体験を通して知った。
そして、この「May I help you?」と声を賭けるのは1ミリも相手のためになっていないどころか、ボランティアに勤しんでいるという自分の存在価値を滴たすための言葉でしかなかったことも思い知らされた。
当時まだ学生だった筆者は、ボランティアというのは誰か困っている人を「助けてあげる」ことであり、ボランティアに従事している自分が、高尚に人間なったかのような錯覚すら起こしていた。
本当にボランティアサポートを受け入れる方のためになっているのかどうか。サポート側が「助けてあげる」気持ちでいる限り、ボランティアを受ける側は本当の意味でハッピーにならないのだ。
その選手からは「助けが必要なときは俺から言うから」と言われた。
本当に必要とされているときに、相手軸で相手をサポートすることこそが、ボランティアの本質なのだ。
不自由なのは身体の一部だけだった、という再認識
車椅子レースに参加していた選手たちは、皆とても生き生きとしていた。
私が担当したエルサルバドルの選手は、銃で撃たれて足を切断したという。そんな彼が、レースで躍動している。
身体の一部を失う、あるいは生まれつき欠けている人に対して、「不自由でかわいそう」と、同情的になってしまいがちだ。しかし、これだけ生き生きと心輝いている人たちを実際に見て、かわいそうなどとは決して思えなかった。
ボランティア、特に海外ボランティアに興味がある人に私からから伝えられる言葉があるとすれば、「ボランティアで多くの人を幸せにしたいなら、まずは身の回りの人を幸せにすることから」。これに尽きる。
何かに困っている人がいるとして、その人に何らかの喜びをもたらす。これは高齢者や障碍者だけでなく、あらゆる人に対して行えばそれも立派なボランティアになる。
地球の反対側にいる人だけでなく、より身近なところでボランティアを必要としている人がいるものだ。
連載:金融女子コスプレイヤーから見た「世界」
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