人間関係を阻み行動を操るアルゴリズムに対抗すべく、「Being Social(社会的であれ)」と説く著名メディア理論家、ダグラス・ラシュコフに話を聞いた。(記事前編はこちら)
──英誌エコノミストのインタビュー(2019年2月1日付)で、あなたはテック大手の独占などに関し、規制よりもユーザーの意識向上を訴えています。反テック主義者かと思っていましたが。
テクノロジーが人々に害を与えることが嫌なだけで、反テック主義などではない。テクノロジーは素晴らしいが、使われ方が問題だ。最も優秀な技術者らが、(人に有害な)経済運営システムに隷属しているという事実が嫌なのだ。
まず、米国では子供たちにメディアリテラシーを教えない。プログラミングは教えても、それが文化・社会にどう組み込まれていくかを教えないのだ。大手テックの技術者ですら、自分たちがやっていることを理解していない。だが、フェイスブックが中国の検閲技術を、グーグルがロボット兵器を開発していることを技術者が知るやいなや、反発が起こる。これが意識向上の第一歩だ。一方、ユーザーはテクノロジーを使う際、自分の感情を顧みて、使い方や目的を考えるべきだ。
テクノロジーに関する倫理観形成については、各国がそれぞれの伝統や文明、社会の中で独自に構築できる。中国の小学校では孔子の教えが復活した。デジタル時代には、人間性をめぐる種々の考え方が必要になるからだ。欧米ではアリストテレスの授業を復活させるべきだろう。
サイバネティックス(注:生物と機械の通信・制御を統合的に考える学問)を唱えた米数学者ノーバート・ウィーナーは50年代、「市場を見直さないと、コンピュータが人間と競うことになる」とテクノロジーの倫理を唱えたが、一蹴された。
栄養分を分け合う植物のように
──あなたは『Team Human』のなかで、人間は元来「社会的な存在」だと書いています。なぜ今、それが重要なのですか。
大半のデジタルプラットフォームのせいで、人間が「社会的」でいられなくなっているからだ。社会性とラポール(親密な人間関係)が相関関係にあることを、デジタル企業は知っている。社会的であれば、テクノロジーに操られにくくなる。一方、デジタルテクノロジーは人間の絆を阻み、人々が実生活での交流を恐れるように促している。
人は古来、視線などによってラポールを築いてきた。ラポールは団結を生み、団結は人々に力を与える。実生活が多くの「いいね!」で満ちていれば、ソーシャルメディアに何時間も費やし、1つでも多くの「いいね!」を得ようとは思わない。