──なかでもどのフレーズを大切にされているのでしょうか。
欲や期待する気持ちを持たず、働き続ける様を表す「デクノボウ」の箇所ですね。私も会社を設立してからは、地域になくてはならないと思ってもらえる事業をつくりたいという一心で働いてきました。毎日、詩を読みながら、自分たちのやるべきことを黙々とやってきたという感覚ですね。
平成30年度の大島町の表彰式では、町長から前述の国際優秀つばき園登録のきっかけをつくったという理由で表彰を受けました。日頃の取り組みを地域に認めてもらうことができたと思うと、とても感慨深かった。素晴らしいご褒美をいただいたという思いです。
──宮沢賢治の考え方が、具体的に事業にはどのように反映されているのですか。
彼は農業と芸術を掛け合わせることで、人生が豊かになると考えていました。その思想に共感するからこそ、椿油も単なる工業製品ではなく「農業製品」としてつくりたいのです。
──芸術の面では、ヴェルディのオペラ「椿姫」のコンサートを毎年開催されているそうですね。
宮沢賢治はよく収穫祭をやったのですが、それと同じ感覚です。椿の種が集まる秋に、プロのオペラ歌手やピアノ奏者をお招きし、催している「お祭り」です。
合唱部分では島民有志の皆さんに「椿姫合唱団」として参加していただき、プロの歌手の方にも指導してもらっています。島民の方々は無料で招待し、いつも300名もの以上の人たちに集まってもらっています。
──私の会社のスパークリングレモン酒「MIKADO LEMON」は、関わる全員がつくり手になれるようなブランドをめざしているので、その取組みはとても興味深いですね。
農業に勤しみ、収穫はお祭りとして仲間と一緒にワイワイ楽しむ。これが賢治のいう「芸術」であり、これからのブランドのあるべき姿にも応用できる考え方なのかもしれません。そこに原点があるのだと思います。
すべては「波浮港」から始まった
──金融業界を退職後、大島や椿に関わり始めたと聞いています。この地で事業を興そうと思った理由は何なのでしょうか。
私はヨットが大好きで、50年以上前から「波浮港(はぶみなと)」にお世話になっていました。私と大島の関わりはそこから始まりました。
波浮港とは、江戸時代、秋廣平六(あきひろ・へいろく)という人物が、港に面した火山湖の海に近いところを爆破すれば立派な港になる、と幕府に進言した結果、生まれたものです。以来、ヨットマンなら誰しもが憧れる港になりました。
川端康成の小説「伊豆の踊り子」や都はるみが唄って全国的に有名な歌「アンコ椿は恋の花」は、波浮港なしには生まれなかった。大島の知名度は、秋廣平六という江戸時代の1人の男の夢の実現から、全国に知れ渡ったのです。そうしたことから、大島で事業がしたいと思い続けていました。
そして時を同じくして、宮沢賢治の詩と出会い、さらには彼が農業指導のため大島を訪問していたことも知りました。1本の細い線が太い線になった感覚でしたね。