しかし、僕にとって一番興味深い話は、会社に入社したばかりの会長のモータースポーツの話だった。言うまでもなく、スズキは4輪と2輪の部門がある。会長は1961年ごろから、同社のモーターサイクルの世界選手権のチームに携わっていた。
1962年、東ドイツ出身のアーンスト・デグナー選手がスズキの初世界GP選手権を獲得した。「彼はとても優秀なライダーで当時の東ドイツから亡命してウチのチームに入ったんですよ」と会長。実は、デグナーは確かに1961年に亡命したけど、東側からの2輪のチューニングの技術も同時に持ち込んでいたので、スズキの強みになったそうだ。その後、スズキはあらゆる各国のモーターサイクル選手権に参戦し、優秀な成績を納めてきた。
「でも、僕は今でも忘れられないのは、当時のチーム健康ですね。チームのメカニックや選手たちの健康を維持するために、欧州へ行っても、南米に行っても、僕はその場所で最も美味しくヘルシーな中華料理屋を探し出しました。それができなかった時は、自分でご飯を炊いて、梅干しとノリを使って60個ほどのおにぎりを作りましたよ。この手で」と笑いながら語ってくれた。
「デグナーともう1人の選手、ニュージーランド人のヒュー・アンダーソンはそれまではおにぎりを食べたことはなかったけど、すぐに好きになってくれたので、助かったです」
転戦する中で会長が、現地の中華料理店の厨房を借り、自ら酢豚とサッパリ系のチャーハンをボウルにいっぱい作り、チームに差し入れしていた話は、関係者の間では語り草となっているようだった。そんな伝説的な話に、俊宏社長はじっと聞き入っていた。
さて、当時の選手たちはどんな人だったと聞いたら、「デグナーはとても真面目でプライドの高い人間。少し扱いにくいところもあったな。でも、アンダーソンはもっとのんびりしていたけど、才能があったですんですね」と懐かしく思い出してくれた。高齢ながら、会長が年代も、人の名前も地名もはっきり記憶していらしたのには驚いた。
最後に「会長の夢は?」とたずねると、「それは世界No.1になること」と即座に答えが返ってきた。インド、パキスタンやハンガリーなどではすでに1位のシェアを獲得しているので、ある意味、その目標を果たしている。だから、東ヨーロッパ、南米、アフリカなどの小型車部門でNo.1になる可能性が、まだあるんじゃないかな。
会長が「一番思い入れのある車種」だと語るジムニーは、今回、初心に戻って高い評判を得た。ますます安全性能を高めて、世界で愛されるクルマになって欲しい。
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