R.C.バルガバ、83歳。自動車大手スズキのインド法人、マルチ・スズキ・インディアの会長で、同社をインドの乗用車トップに押し上げ、その地位を30年以上にわたって維持させてきた立役者だ。
マルチ・スズキはインドで現在も47%超、新車販売の2台に1台を占めるほどのシェアを握り、地場勢はもちろん世界の大手にも圧倒的な差をつけている。スズキ・グループで見ても、世界での総生産台数307万台のうち実に158万台(2016年度)を占める稼ぎ頭。フォルクスワーゲンやトヨタから提携を求められるほど大きなスズキのプレゼンスを支えているのはマルチ・スズキであり、バルガバだといえる。
数学の博士号を得た後、キャリア官僚として中央官庁や国営企業の幹部を歴任。1982年に印日の官民自動車合弁プロジェクトが発足した際、スズキの鈴木修会長(当時社長)のカウンターパートとなり、専務、社長、会長として、官僚出身者らしからぬ柔軟なマネジメントでマルチを率いてきた。2011年には日本の旭日重光章(外国人対象の叙勲で順列2位)、16年にはインドのパドゥマ・デュシャン章(順列3位)も得ている、文句なしの大物だ。
7月に来日したバルガバがインタビューに応じ、マルチ・スズキの成功や日本にとってのインド・ビジネスの可能性について語った。
──インドの乗用車市場は成長市場だが、ゼネラル・モーターズが5月に撤退を決めるなど厳しさもある。その中でのマルチの大きな成功の要因は何か。
バルガバ : 振り返ってみれば、ブルーカラーとホワイトカラー、従業員とマネジャー、みんながひとつのチームとして働いたこと、企業の利益の最大化と個人の利益の最大化を一致させたことが鍵だったね。
スズキとの合弁が決まった82年当時、インドの自動車市場では年間販売台数が3万5000〜4万台で、その停滞が10年ほど続いていた。それなのに政府はマルチの年間生産台数を5年で10万台にしろと言う。たとえ造れたとしても売れるはずがないと、誰もが考えていた。私は思った。他の国営企業と同じようにやれば同じような結果しか出ないから、何か別のやり方でやろうと。
そのころから日本の自動車産業は国際競争力が強かった。国内に資源はなく原材料は輸入で、市場はどこも遠い海の先というハンディキャップがあったのにね。それが可能になるマネジメントやプラクティスが日本にはあるはずだから、それを導入しようと考えた。
──日本式のマネジメントをインドで実行した?
バルガバ : 日本人の多くは今でも、インドで成功するにはビジネスをインド式でやらなければならないと考えている。日本式をそのまま移植しようとするな、マネジメントはインド式でやれ、とね。だが、インド式のマネジメントでやれば結果もインド式になる。残念ながら今でも世界に通用する競争力を備えたインド企業は多くない。