公認会計士となってすぐ、米田は「数字から企業の本質が見える」面白さに目覚めたという。
「数字からは経営者の意思や他社と比較しての強みが浮かび上がってくるし、逆に歪みも見える。そこできちんとアラートを出すことができれば、歪みは直っていく。監査を通じて企業の軸が整っていくのが、すごく面白かった」
人とぶつかるのが嫌いだった米田が対立を恐れないようになったのも、このころのことだ。とくに08年のリーマンショック後は、クライアントとの衝突は不可避だった。
「この会計処理は間違っています。これでは監査報告書は出せません」
「会計士ごときに何がわかる!おれたちの会社をつぶす気か」
激論ばかりが続き、きつい時期だったと米田は回想するが、その苦しさから逃げなかったのは、職業倫理からばかりではない。
「この企業は大丈夫だと私は信じていたんです。最終的に良くなるとわかっていれば、耳の痛い話もせざるを得ない。きつい会計処理をしても強みはなくならないとか、残っていける組織だというのを、私自身が信じて、一瞬の痛みを恐れず逃げない姿勢を大事にしたかったんです」
派手に火花を散らしたクライアントとは最終的には信頼関係を築くことができ、担当を離れても交流が続いた。また米田の厳しさは後輩からも反発されがちだったが、「一緒に仕事ができてよかった」と後に感謝されたことは、貴重な成功体験となった。
一方で、米田は公認会計士の仕事に限界も感じはじめた。最たるものが、自社の風土改革プロジェクトを任された際の挫折だ。情熱だけでの推進は難しく、無力感を深めたという。
「誰かの熱量が周りに伝播していくのも大事だけど、気づいたら皆が変わっていたとか、自然と変わりたいと思えるような仕組みに落としこまないと持続可能ではない。当時の私にはその仕組みをデザインする力がなかった」。人間心理や企業の軸をどうしたら整えられるのかと悩んだ。
数字やロジックでは解決できないものがある。そんなジレンマは、「会計士になった原点の“女性の働きにくさ”という問いも解消できていない」という自身の軸のずれも突きつけてきた。13年6月、米田は独立を決意し、夏には退社した。
確たる見通しがあったわけではない。が、まもなく、人材・組織開発のコンサルタント「知惠屋」の中村繁が、米田の退社を知って声をかけてきた。
知惠屋は中村がリクルートエージェント(現・リクルートキャリア)の社内で立ち上げ、独立したもので、法人化のタイミングで米田は共同経営者になった。
知惠屋以外の仕事も次々手がけた。保育園の監査を引き受け、そこから社会保障費に関心を持ち、在宅診療所の立ち上げにも奔走。医療現場を回った日々を、米田はこう振り返る。
「それまで女性の働きにくさという問いはあっても、生きにくさを感じている当事者に触れる機会はなかった。自分の言葉の上滑り感に気づいたのが、この時期です」
どうしたら社会のシステムを良くできるか─原点の問いはより広範なものとなっていった。そして、「当事者意識のなさ」が社会課題の解決を阻む要因だ、という思いが、反省も踏まえて強まった。
そんな折、米田の運命も、Jリーグという思いがけない方向へと転がる。
米田にとってJリーグは、ひと言で言えば「遠い」存在だった。スタジアムへ試合観戦に行ったこともなかった。
17年が明けてすぐの晩。米田は中村に誘われ、かつての中村の上司でJリーグのチェアマンである村井満と3人で、神楽坂の割烹料理屋のカウンターにいた。近況報告をしあううち、村井が「あ、そうだ」と思い出したように言った。
「自分の人生を語る機会が3日後にあるんだけど、それを文字で残しておきたい。誰かライターを紹介してくれないかな?」
プロスポーツの経営人材の養成や輩出をめざす組織での講演だという。米田が「私が書きましょうか」と言うと話が決まった。
迎えた当日。メディアを入れない場で、村井はそれまで話してこなかったことも「すべてを開示する」と宣言し、2時間弱の講演が始まった。
米田はその話をノートパソコンに打ち込みながら、幾度も涙がこみ上げてきた。全身全霊を傾けて参加者に語りかけ、そのなかから次の経営者を出すという村井の熱量が伝わってきたからだ。
帰宅後も興奮がさめず眠れぬ夜を過ごした米田は、村井の講演を一気に18枚のレポートにまとめた。最後に自身の感想も記した。
「私は、組織というのは社会にとっての公器であり、人にとっての成長の場であると思っています。そんな理想の組織を、命を削って創り上げてきた村井さんの生き様に触れられたことに感謝し、メッセージを受け取った者の1人として、私も同じ時代を生きる社会の乗組員として頑張ります」
翌朝、米田はそのレポートを村井にメールした。今度は村井が米田の熱量に驚く番だった。「お前、仕事早いな!」。さらに「おれが話した以上にしっかり言葉にしてくれた」と喜んだ。
奇縁は重なる。翌月、知惠屋にJリーグのクラブから、経営理念の浸透について依頼が舞い込んだのだ。村井から刺激を受けたばかりの米田は張り切って、100枚を超える紙芝居風の提案書をつくり上げた。そして、軽い気持ちで、村井に見せた。
「なんじゃこりゃ!」と興奮した村井は、それをJリーグの経営陣に見せてまわった。そして後日、「ここに書いてあることをリーグのほうでやってくれないか」とJリーグの風土改革を打診してきた。それが3月末のこと。新年度から、米田はJリーグの社外フェローとなった。