身長182センチのすらりとした体型と、柔らかな物腰。その佇まいは、激流で揉まれ、丸みを帯びた下流の石を連想させた。
アチハの社長、阿知波孝明は、5歳から始めた柔道で全国大会に出場したほどの実力者だ。
体育会臭プンプン、欲望ギラギラ──。そんな人物像を想像していたが、実際の印象は逆だった。
「柔道をやってた頃、僕は81キロ級でしたが、いちばんひょろひょろだったんです」
そう語る腰が低い阿知波は瀕死の状態にあった輸送会社を20代半ばで父から継いだ。新幹線の車両など特殊な重量物を市街地を縫うように電線などを避けながらセンチ単位の正確さで遠方まで運搬する専門性の高い会社だった。
そんな阿知波は「うちは『商流』を逆上ってきたことで活路を見出してきた」と語る。この「商流逆上り」とは何か? これから解き明かしていこう。
「今月の手形は待てませんよ」
阿知波の人生が急転したのは2004年春、南カリフォルニア大学大学院生のとき。日本の大学を卒業後に留学し、国際公共政策学を学んでいた。元軍人の祖父がいつも「お国のために」と口にしていた影響で、将来は政治の道に進みたいという思いもあった。
ところが修了まであと半年と迫ったとき、母親から風雲急を告げる報せが届いた。
「お父さん(の会社)が民事再生するよ、いいの?という手紙がきたんです」
アチハの前身、阿知波組の創業は1923年まで遡る。馬で荷物を運ぶ馬力屋だった。父の毅は3代目で、重量物の運送業者として確立した。ところがバブル期の過剰な設備投資で徐々に資金繰りが悪化し、行き詰まってしまった。同事業はクレーンが1台10億円するなど機材にかかる資金が普通ではない。阿知波が語る。
「父親がよく話すのですが、いいときは十何億ものキャッシュを持っていて、怖い物なしだったそうです。それが5年くらいで一気に傾いて。歯車が逆回転し始めると、もうどうしようもなかった」
一家の大事に直面し、阿知波はアメリカに渡ってから初めて大阪の実家に帰った。そして、尋ねた。
「オヤジは、なんで会社を継いだの?」
「それは、血やろ」
家業を継ぐつもりはなかったが、その言葉で、阿知波の気持ちは固まった。
「運命ですよね。父親に継いでくれと頼まれたわけではないんですけど、僕にも同じ血が流れていると思ったら、やらなあかんと思った」
いったんアメリカに戻り、修了資格を得てから、お盆の時期に再び帰国した。阿知波を待っていたのは手荒い「歓迎」だった。
「休みにもかかわらず、債権者の方が3〜4組くらい来ていた。『今月の手形は待てませんよ』と。手形って、『手の形』をしているのかと思ったら、そうじゃないんですね。そんなことも知らなかった……」
休み明け、阿知波はいきなり副社長に就任させられる。事後処理を任されたのだ。
「まずはその8月末をどう乗り切るか。何社もの金融機関に、とにかくお願いするしかなかった」
そんな状況下、リースしている車などはほとんど持っていかれ、毎月のように従業員が複数人去っていく。阿知波が会社にやってきてから1年くらいは回復するどころか、ますます悪循環に陥った。
逆回転している歯車を「少しずつ押し返せるようになった」のは、3年目のことだった。某テーマパークのジェットコースターの工事を任されたのだ。
競合他社には大手エンジニアリング会社など4社もいた。にもかかわらず受注できた要因を阿知波はこう分析する。
「技術力では大手である競合他社には勝てない。しかし我々は特殊運送では誰にも負けないという技術がある。ならばそれを生かし、お客様であるテーマパーク会社が、昼間は運営し、夜に閉園してからさっと入って工事してさっと出ていくという工事提案をした。我々だからこそなせる技だと思う」
アチハはこのとき運送業務だけでなく、ジェットコースターの組み立てまで請け負った。
「やらざるをえなかった。何十億もの借金がありましたから、運送だけではもう返せないと」
このとき半ば強引に業務を拡張したことが、のちに会社を大きく成長させるきっかけとなる。
着工してから、阿知波の住居は車になった。
「他の会社を見たことがないので、24時間寝ないでやるのが仕事だと思っていた」
不眠不休の奮闘によって得た最大の利益は「信頼」だった。銀行のアチハを見る目が変わったのだ。ある銀行が、新しい会社で一から始めるつもりなら、数億円の融資をすると言ってきた。