新幹線の展示会のため、新潟市「新潟新幹線車両センター」から茨城県筑西市「ザ・ヒロサワ・シティ」へ、JR東日本E2の輸送と据え置きを行った(写真 : ザ・ヒロサワ・シティ提供)
06年、3代で築き上げた阿知波組の名は、新会社アチハに吸収される形で消滅することになった。その際、成功の証しでもある祖父母が建てた大豪邸は手放さなければならなかった。
「祖母には『私を追い出すのか』って言われましたけどね。でも、それしか道がなかった。名前がカタカナに変わっただけでなく、内臓から脳みそまで、全部移植したようなものでした」
余命宣告を受けつつ持ちこたえ、生まれ変わることができた理由。それもまた「血」だった。
「給料の支払いが遅れる中、父親は毎月何十万円もの生命保険料を掛け捨てしていた。経理部長は理解できないと言っていましたけど、僕にはわかっていた。それが父親なりの責任の取り方なんだな、と。だから僕も死ぬ気になれた」
うちはエンジニアリング会社でもあり、商社でもある
死地を潜り抜け、学んだことが2つある。
「鈍」を使え──。
父親の言葉だ。この意味が胸に落ちてきたのは、事業が少しずつ軌道に乗り始めた頃だ。
「会社を立て直している最中、僕は400、500人の出入りを見てる。最初の7、8年間ぐらいは、2、3カ月で辞めてしまう社員もたくさんいたので。そうして最後の最後に残ったのは『鈍』なんです」
阿知波が言う「鈍」とは、簡単に言えば、損得勘定に左右されない人間のことを指す。
「昔は寝ずに現場で働くこともあった。今はもうダメですけど。そんなとき、本当にがんばれるのは『鈍』です。いい人間が残っていれば最後、みんなで力を合わせて何とかがんばり抜ける」
死線を彷徨う中で得たもう1つの教訓は、現在のポジションに固執するのではなく、「商流(商業の流れ)を上る」ことだ。たとえば、ジェットコースターの組み立て工事も、本来はエンジニアリング会社の仕事だ。しかし、運送だけにとどまるのではなく、そこまで上っていく。すると商機が拡大する。
「京セラの創業者である稲盛和夫さんが『飛び石は打たない』とおっしゃっていました。うちの原点は、重たい物を運ぶこと。その延長線上を進めば、彼らのノウハウを生かせると思った」
目下、アチハの二大事業は風力発電と電車だ。この2つは、商流の上から下までアチハがすべて引き受ける。風力発電は風車の輸送から設置まで自社で行い、電車に関しては日本の中古車両を東南アジア各国に売るなど売買から関わっている。
「1つの会社で商流のすべてをまかなうことができると、話が早いですし、コストもかからない。うちは国際物流会社でもあり、エンジニアリング会社でもあり、商社でもある。多種多様な業種をやってるようですが、すべて『重量物』というキーワードでつながっている。だから『飛び石』ではないのです」
最近はSLを購入し、走らせることができる状態に修理した。施設内で運行させるだけでなく、全国どこへでも線路ごとリースする事業も手がける。
「下請けから脱却するには、運ぶ仕事を自分たちで創り出さなければならない」
阿知波は仕事を前に進める際、ことあるごとに敬愛する稲盛の〈動機善なりや、私心なかりしか〉という言葉に立ち返るという。
「日本の電車のメンテナンス技術はすごい。海外に安く売ってあげたら、向こうも喜ぶし、日本としてもありがたい話じゃないですか。それと、原発を否定するわけではないですけど、やはり日本の未来のためには自然エネルギーの方がいいと思うんです」
若い頃、「お国のため」と政治家を目指した思いも、そこには重なっている。阿知波の重量物を運ぶことへの欲望は尽きることがない。今、思い描くのは、日本の山々に建つ風車の姿だ。
「山の上は、いい風が吹いてるんです。ただ、今の日本には輸送手段がない。僕らがヘリコプターを持てば、山の上まで風車を運べる。調べたら、ロシアにMi-26っていう巨大なヘリコプターがあって、それなら20トンぐらいの荷物を吊って運ぶことができる。それを買おうかなと思ったことがある。でも40億円ぐらいするらしい。60メートルの羽根をワイヤで吊ったら、すごいでしょうね」
本当に買ってしまいそうだった。
アチハが運んでいるもの。それは「重い(物)」であり、阿知波の「思い」でもある。
阿知波孝明◎1977年、大阪府生まれ。大学を卒業後、渡米し南カリフォルニア大学大学院修士課程を修了。27歳の時に会社の危機を知り、アメリカから帰国。その後遊園地の遊具設置など新事業を始め会社を復活させる。「ベンチャー型事業承継」を体現する経営者としても注目を集めている。尊敬する人物は京セラの創業者である稲盛和夫。
アチハ◎前身である阿知波組は1923年創業。2007年、アチハが同社事業を継承。重量物の運搬事業だけではなく、風力発電事業やSL機関車のリース事業などを手がける。