日本人バレリーナも活躍するウラジオストクで本場のバレエを観る

「くるみ割り人形」の公演(2018年11月上旬撮影)

世界的なバレエの中心地からは遠く離れているが、極東ロシアのウラジオストクでは、1年を通じてオペラやバレエの公演が行われている。その舞台となるのは、ウラジオストク港に架かる金角湾大橋のすぐ先に、2012年に完成した現代的な劇場だ。

正式名は「ロシア国立マリインスキー劇場沿海地方ステージ」。2016年から、同劇場がロシアを代表するバレエの殿堂、サンクトペテルブルグのマリインスキー劇場の傘下に入ったことで、この名前がついた。それとともに、双方の人材の交流も盛んとなり、本場の舞台芸術が楽しめるようになった。


2012年に完成したガラス張りの現代的なシルエットが美しいマリインスキー劇場

多国籍なバレエダンサーたち

このウラジオストクの劇場で、ソリストとして活躍しているのが西田早希さんだ。西田さんは、16歳のときに単身サンクトペテルブルクの名門ワガノワ・バレエ学校に入学し、卒業後はモスクワの劇場でデビュー。2016年に、ウラジオストクのマリインスキーバレエ団のエリダール・アリーエフ監督に誘われ、この地にやって来た。

西田さんは、ここウラジオストクで毎月平均7~10回の公演をこなす。もちろん海外に公演に呼ばれることもある。

「毎朝10時に劇場に出かけ、11時頃からレッスンです。まずストレッチと基礎トレーニングを行い、午後からリハーサルです。そして、夜7時からは公演が始まる、そんな毎日です」

彼女によれば、ウラジオストクのマリインスキーバレエ団のユニークさは、団員の多国籍性にあるという。最近ではモスクワやサンクトペテルブルクでもその傾向があるというが、彼女も含めて現在8名いる日本人だけでなく、中国やブラジル、イタリア、スペイン、ベルギーなど、ロシア人以外のダンサーも多数所属しているそうだ。

「それでも、ここではロシアメソッドが基本。ロシアのバレエは古典を大切にします。練習中も『ここはマリインスキーなんだぞ』と、そんな厳しい声が飛ぶこともあります」

日本バレエの黎明期を支えた人たち

ウラジオストクでソリストとしての日々を送る西田さんには、古い先達がいる。日本バレエ協会初代会長の服部智恵子さんだ。彼女は1908年(明治41年)ウラジオストク生まれ。多くの日本人がこの地に渡航していた20世紀初頭、貿易商をしていた両親のもと地元の教室でバレエを学び、ロシア革命後しばらくして日本に帰国した。

その後、同じく革命から逃れ、ヘルシンキやハルビン、上海を経て、1920年(大正9年)に日本に来た亡命ロシア人で、「日本バレエの母」と呼ばれるエリアナ・パヴロワと出会い、彼女の率いる日本初のバレエ団に入団する。日本バレエの黎明期を支えたのは、実はウラジオストクとゆかりの深い人物だったのだ。

日本における西洋芸術の受容は、バレエに限らず、ロシア経由のものも多い。戦前の、日本と満洲およびロシアとの音楽交流の歴史を綴った「王道楽土の交響楽 満洲―知られざる音楽史」(岩野裕一著 1999年 音楽之友社刊)によると、ロシア革命の起こった1920年前後には、ロシア、シベリア方面から多くのロシア人音楽家や舞踊家が来日し、公演を行っている。

1919年9月には、日本で初めて、海外からの本格的なオペラ・グループ「ロシア大歌劇団」(ロシア・グランド・オペラ)が帝国劇場に招聘されたが、彼らはウラジオストクで臨時編成されたロシア人のグループで、公演は大盛況だったという。

こうした歴史を踏まえれば、21世紀の今日、劇場のある町ウラジオストクに西田さんのような日本人バレリーナがいるというのも、不思議なことではない。日本とウラジオストクの絆は、今日でもさまざまな人々とその思いによって結ばれている。彼女もその結び目のひとつなのだ。
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文=中村正人 撮影=佐藤憲一

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