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砂押貴久のエモーショナルライフ

キース・ヘリング美術館プログラム&マーケティングディレクター(筆者撮影)

世界を相手に活躍する経営者やクリエイターに話を聞く不定期連載「グローバル思考」。今回のゲストは、キース・ヘリングのアートを通してLGBTQなどのプロジェクトにも携わっている、Hiraku。中村キース・ヘリング美術館プログラム&マーケティングディレクターだ。

児童期に家族の意向でNYに連れて行かれ、18歳から通い始めたクラブ遊びがキッカケで「アメリカでもっとも重要な写真家」と言われるライアン・マッギンレーの被写体になり、26歳の若さでセレブから人気のブランド「パトリシアフィールド」のクリエイティブディレクターに就任。

日本に帰ってきた31歳からは、中村キース・ヘリング美術館プログラム&マーケティングディレクターとして活動するなど、ファッションやアート業界に身を置きながら過ごしてきた。日本で育っていたらあり得ない特殊なキャリアは、どのように形成されていったのだろうか。


ある日突然だった──。

「家族の意向で『NYに引っ越すよ』と言われました。海外に興味もあったので付いて行きましたが……住み着いた場所は想像していたNYとは違い、ドラム缶が燃えているような本物のスラム街でした(笑)」

1984年生まれの少年は、アメリカ生活に向けた準備をしていなかったため、最初はコミュニケーションやカルチャーの違いにつまづいた。だが、幼少期に英会話スクールに通っていたこと、物覚えが速かったこともあり、移住して半年でヒアリング、1年でスピーキングができるようになった。スペイン語も飛び交うスラム街という場所柄、簡単なスペイン語も身に付けた。

中高と普通のNYの公立学校に通っていたが、ビザの関係で日本の高校を卒業する必要があり、高校3年の半年間だけ、母の地元である大分の学校に通学することになった。そこで彼を待ち受けていたのは、カルチャーショックだった。

「想像と違っていたNY生活だったので、『日本に帰りたい』『日本に住みたい』と思っていました。だから『日本人であること』を忘れないようNYで生活していました。ただ、日本の学校に戻ってみると、授業中にトイレに行くのはNG、水を飲むのもNG、シャツ出しもNG。気づかない間に自分がアメリカの高校生になっていて、日本の生活にショックを受けました。日本語も下手になっていたので、周りから笑われたりして、コミュニケーションも上手く取れなくなってしまいました」

遊ぶほどに収入が増えた

大学から母と別れ、単身でNYに戻った。そして、18歳の時にゲイクラブ・デビューをし、初めてのゲイ友達を持った。そこには自分が想像していたNYの姿があり、一気にクラブにハマっていった。それは、物心ついた頃から男性に魅力を感じながらも「クローゼットに閉じ込めているような思いだった」という、セクシュアリティーの問題が解放された瞬間でもあった。

クラブ通いをしていたある日突然、有名なクラブのプロモーターから「エントランスもお酒もタダでいいから遊びに来ない?」と言われる。NYのクラブで権力を持つそのプロモーターの名前を出せば、どんなクラブでも外で並ばずに入れてVIPセクションに座れた。

そうしているうちに人脈が増え、遊びに行くだけでお金がもらえるようになっていった。クラブに15人ほどの友達を連れて行くと3万円のギャラが支払われる、いわゆるさくらの仕事だ。友達もみな入場もお酒もタダで、VIPセクションで遊んでいた。

「当時は、クラブで遊びたいがために媚びてくる人がいたり、友達が有名人だったこともあり『自分も人気者』と舞い上がっていました」

文=砂押貴久

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