マクロンは両親そろって医師という家庭に生まれ、フランスのエリート層を数多く輩出している高等教育機関を卒業した。ニールがついぞ持つことのなかった、エスタブリッシュメントならではの信頼性を備えている。若い頃にはフランスの哲学者ポール・リクールの助手として働いた。
リクールのライフワークは極端に対立する見解の間のバランスを見出すこと。マクロンはその経験をロスチャイルドでの仕事に生かし、34歳にして300万ドル以上を稼いだ。スイスの食品大手のネスレがフランスのダノンとの争奪戦を制し、ファイザーのベビーフード部門を118億ドルで買収するのに手を貸したのだ。その後に彼は、フランソワ・オランドが率いる社会党政権の一員となった。
当初の肩書は大統領府の事務次長だったが、14年8月には経済大臣に任命され、現在進めている改革の先駆けとなる政策を推進した。その合間には教育系のスタートアップの起業を考え始めてもいる。
「だから私は起業家やリスクを取る人々のことをとてもよく理解していると思いますよ」と、大統領は言う。
マクロンは政府での短い在任期間を効果的に活用した。「彼はシリコンバレーがなぜ成功したのか尋ねていた」と、シスコ元CEOのジョン・チェンバースは言う。彼がマクロンやフランスのスタートアップ創業者を呼んで、パロアルトで夕食会を催した時のことだ。彼らはなぜボストンのルート128がIT産業の中心地としての地位をシリコンバレーに譲ったのかについて話した。「彼はひたすら学んでいた。吸収していたんだ」。
ステーションFがオープンした日、カメラのシャッター音と人々のおしゃべりが施設内にこだました。ダークスーツに身を包んだエマニュエル・マクロンは、最近大成功を収めたフランスの起業家アントワーヌ・マルタンに、どうやって位置情報アプリのZenly(ゼンリー)を創り出したのかと尋ねた。
そのアプリを2億1300万ドルでスナップ社に売ったばかりのマルタンは、簡単ではなかったと答えた。ある時点では事業全体を方向転換(ピボット)しなければならなかったと。
「ピボット?」と、大統領が聞き返す。
近くにいたニールがすぐに説明を加えた。というのもフランス語の「ピボット」は通常、体を旋回させるという意味で、ビジネス戦略の転換を指すことはないからだ。30分後、マクロンはステーションFに集う数百人のスタートアップ創業者やソフトウェア技術者の前に進み出た。写真を撮ろうと携帯電話を掲げた聴衆にマクロンが披露したのは、その3年前に「起業家になる」と夫人に約束した逸話だった。だが事情は変わった。
「つまり私はビジネスモデルを“ピボット”したのです」と彼は言い、人々の笑いと歓呼を誘った。
マクロンは明らかにのみ込みの早い男だった。そして確かに「ピボット」の仕方を知っており、そのおかげで前任者たちにはできなかったことを成し遂げる機会を得た。
ステーションFに申請を出す国外の起業家たちは、シリコンバレーでの起業コストの上昇やドナルド・トランプ、ブレグジットを申請の理由として挙げるが、今や3つとも既定路線になった感がある。フランスは歴史的にこの種の恩恵を無にしてきた。だからこそマクロンはこれだけの切迫感をもって行動しているのだ。
「たいていの指導者は任期の最後になって改革を決断するものです」と、彼は言う。しかしマクロンは任期の序盤から重要政策を打ち出した。「今日なすべきことを明日に延ばしてはなりません。『後でやろう』では手遅れなのです」。